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項目 内容
ID J2700268
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東~九州〕
書名 〔中泉代官〕(静岡県)磐田市誌編集委員会編S56・3・31 磐田市発行
本文
[未校訂]安政の大地震に代官所全壊
 嘉永七年(一八五四)一一月四日のいわゆる安
政の大地震は、郷土に大きな被害をもたら
した。この時中泉代官所も全壊した。この
ことは時の代官林伊太郎の御勘定所への御届書によって
知られる。大地震の御届書は、歴代の代官中の林伊太郎
の項においてとりあげる予定である。「青山家御用留」に
も、地震当日の夜出した緊急手配の廻状が載っている。
中泉陣屋皆潰につき、掛下村(現豊岡村)名主伝右衛門が代官所
の命をうけ、仮家普請のため大工を確保しておこうする
内容のものである。
 廻状を以て申上げ候、各々様御揃ひ御清栄賀し奉り候、
然れば今般地震ニて中泉 御陣屋皆潰ニ相成り候
間、御仮屋御普請急仕組み候間、其御村々大工外方ヘ
差出さす御留置き下さる可く候、両三日中に申上げ次
第中泉ヘ御差出し下さる可く候、右之段申達す可き旨
仰せ渡され候間、大工ヘ御申渡し下さる可く候、以上
寅十一月四日夜 掛下村
名主伝右衛門
渡ヶ島村
米沢村
日明村
伊砂村
横山村
大工之儀ハ右村迄
西雲名村
大嶺村
瀬尻村
戸口村
川西通り残らず村々
御名主中
続いて六日には、陣屋皆潰につき取片付のため人足差出
しの廻状が出ている。これも二俣村(現天竜市)名主が出してい
る。そして池田・斎藤両手代から、北遠の支配所ヘ通達
すベきであるが、役所で認める余裕がないからと断って
いる。手代両名は中泉詰の池田滝五郎と斎藤甫十郎であ
ろう。
急廻状を以て貴意を得候、益各々様御安静賀し奉り候、
然れば今般大地震ニて中泉御陣屋皆潰レニ付、右取片
付け御用の為、其御村々ニて人足拾人或ハ弐拾人、小
村ニてハ五人八人宛此廻状御披見次第、御村役人御壱
人ヅヽ御差添ヘ早々御越し成さる可く候、
池田斎藤両旦那様より仰せ渡され、奥手支配所村々迄
通達致す可き旨、御役所御認メ之御猶予御座無き趣ニ
付、左ニ御承知御取計らひ下さる可く候、当村最寄横
川村迄之儀ハ、壱番組仕り候、以上、
寅十一月六日巳上刻二俣村
名主
川口村
渡ヶ島村
日明村
伊砂村
月村
横山村 十五人
西雲名村 三人
大嶺村
瀬尻村
右村々御名主中
林伊太郎長孺
嘉永六年(一八五三)―安政五年(一八五八)
林伊太郎の履歴については、「磐田郡誌」に墓銘を載せ
ているのでそれによろう。
林鶴梁、名は長孺、通称は伊太郎、鶴梁は其の号なり。
武蔵の人。祖伊兵衛、父左十郎、三世相承けて徳川氏
武庫の吏員と為り、始めて[恪励|かくれい](○つつしむ はげむ)自ら奮ひ、古
文を長野豊山に学び、経義を松崎[慊堂|こうどう]に受け、文名大
に鳴る。弘化二年乙巳、甲府の教官(○徽典館学頭)に[擢|ぬきん]でら
れ、嘉永六年癸丑、遠州中泉の代官に任ず。事を[作|な]す
に民費を費さざるを誓ひ、訟を聴くこと[冤|えん](○無実 の罪)なき
を期し、[請謁|せいえつ](○たのみ 入る)を絶ち[苞苴|ほうしょ](○おくり もの)を禁ず。時論
参遠福星を得たりといふ。安政元年甲寅、地震[海嘯|かいしょう]あ
り。居民大に食に[困|くるし]むや、倉を開いて[賑済|しんさい](○にぎわし すくう)
し、[旧儲|きゅうちょ](○古いた くわえ)を[尽|つ]くすも未だ足らず。依て私金一
百三十両を出し、麦稗を[市|か]ひて之を貯へ、[名|なづ]けて恵済
倉といふ。なほ富豪を募り足らざるを助けしむ。皆感
激して之に赴く。民頼りて[存活|そんかつ](○生命を保つ)せり。又古社倉
に基き議して[称貸|しょうたい](○金をかして 利息をとる)収息立本の法を説く。
未だ免許を得ざるに、任を羽州(○山形 県)幸生に移す。
鶴梁は長野豊山・松崎慊堂に師事して、儒学及ぴ詩文
に長じた学者であった。親交のあった水戸の藩儒藤田東
湖は、早くからその人物を推奨していた。鶴梁の前職は
甲府徽典館学頭であり、学者で中泉代官に就任したのは、
羽倉簡堂と林鶴梁の二人である。鶴梁は文化三年(一八○六)八
月一三日生れであるから、中泉へ赴任したのは、四七歳
の働き盛りの時のことであった。
安政の大地震
 鶴梁がたまたま安政の大地震に遭遇した
のは、赴任の翌年一一月四日のことであっ
た。代官所は全壊し、緊急手配など近村の名主に代行せ
しめたことは前述したが、混乱の中にあって、逸速く地
震の模様を勘定所に届け出ている。
大地震之儀に付御届書
当十一月四日辰の上刻大地震にて、遠州中泉陣屋向、
并びに陣屋元共、皆潰に相成り、其余一体右に准じ候
趣に御座候得共、未だ調方行届かず、支配所内凡そ之
処、左に申し上げ候。
東海道
袋井宿
右之宿之儀、皆潰之上所々より出火、一宿残らず焼失、
即死、怪我人、凡そ百人余もこれ有り、差当り夫食差
支え候旨願出で、捨置き難く候間、取敢えず夫食并び
に類焼手当之儀、夫々取計い、且つ隣郷渡辺能登守陣
屋よりも、米弐拾五俵手当これ有り候旨、宿役人共申
立て、尤も人馬継立て差支え候趣に御座候、

舞坂宿
右宿并びに浜寄り村々共、津波にて過半打潰れ候趣に
相聞え候得共、治定は追て申し上ぐ可く候、

日坂宿
見附宿
右宿之儀も、潰家出来之由には御座候得共、往来継立
は差支えこれ無き趣に相聞え申し候、

赤坂宿
右宿之儀は、先づ無難之様子に相聞え候得共、風聞の
みに付、治定仕り兼ね候、
遠州豊田郡
掛塚村
右村之儀、地震にて村内過半潰家出来候上、津浪にて
猶大破に及び候旨、届出で候、
一都て往来二三尺程宛地裂け、泥水吹出し、天竜川通
り村々は、大囲堤震れ込み、跡形も無く相成り候場
所もこれ有り候趣に御座候、
右凡そ之処、書面之通に御座候、支配所村々、都て
多分之潰家之趣には御座候得共、治定は追々御届申
し上ぐ可く候、尤只今以て大小之震動相止まず、人
心落着き兼ね候儀に御座候、以上
寅十一月 林伊太郎 印
御勘定所
右はとり急ぎ届け出たものであるが、支配所の被害状況
の大凡は知られる。袋井と掛塚がひどかったようである。
袋井宿へ米二五俵の手当を出した渡辺能登守は、三一〇
○石知行の旗本で、山名郡堀越村(現袋井市)に陣屋があった。
地震の模様
 安政の大地震を身をもって体験した横須
賀西田町庄屋常吉は、地震の模様を「横須
賀藩御用控」に次のように記録している。
大地震は四日卯之刻に候得共、夫より引続キ毎日〳〵ゆり、尤も五日六日両三日位は中々五六遍位づゝニて
は留り申さず候、中地震小地震之儀は拾弐三遍位と覚
え申し候、殊ニゆり候度毎ニ大キ成る音仕いたし候、
誠ニ気味合い悪敷く、老若子供迄顔色土之如し、不意
之災難故夥敷く周章騒動ス、併し乍ら神仏之御蔭を以
て漸々裏表江迯出し、半死半生ニて相迯レ申し候、成
れ共中には即死怪我人等も多くあり、是ハ別ニ御上様
ヘ書上ゲ申し候写しニ委敷く留置き申し候、何分急場
之事故早鉦之なる度々なり。已ニ大工町大火ニ相成り、
壱ケ町々内残らず焼失致し候、白昼ニは候得共、何分
地震心ヲ痛め居り候間、火消人足見舞人等も早速参ら
ず、折節西風烈敷く候間、壱ケ町々内焼失仕り候、既
に時刻移り夕暮ニ相成り候得ども地震相止まず、震動
之音少しく聞え申し候、思イ〳〵に小薮かげ屋敷しり
などヘ畳戸板を出し一夜を明し、其夜寒キ事夥し、第
一食物之煮たき不自由なり、有合せ之もの食し只々神
仏ヲ念じ一心不乱、平生トハ事替り一命助りたき心願
故、一ト声ニてもむだなく極最上の崇にてばかり、斯
て一心相届キ次第に少々宛遠のき漸々月末ニ相成り候
頃、破損軽キ者渡世少々相励み申し候、成れ共本家ヘ
引移り候者少々、小家掛りニて万事不都合勝なり、何
れも難渋いたし候事、
中泉村の被害と代官所の救済
 この時の中泉村の被害状況はどうか。当
時の中泉村は、東町・西町・西新町・東新
町の四町であった。当時の戸数人口はわか
らないが、天保九年(一八三八)の村差出明細帳、明治六年調の
戸数から、当時戸数は三〇〇軒をちょっと越し、人口は
大体一二〇〇人前後ではなかったろうか。家屋の被害状
況と代官所の救済と、「中泉町誌」に載っている。
皆潰 半潰
東町 一八軒(内二か寺)二〇軒(内二か寺)
西町 二〇(内四か寺)二九(内一か寺)
計 三八 四九
外に土蔵 三か所
 人畜の死傷については何等記載がない。この時中泉陣
屋も皆潰になっているが、代官所は罹災者に対して次の
ような救済の処置を講じている。
東町六七軒、西町五三軒、西新町三二軒、東新町一六
軒、計一六八軒ヘ対し、一軒に付米七升、銭三〇〇文
の救助、
次いで夫食日数三〇日分として米三七石八斗五升の貸
下げ、但し五か年賦返納。
さらに金二七両一分永六文分の米一三石二斗、三〇日
分として再度の救助、一両に付四斗八升位の勘定、下
米と思われる。
金二三両、これは田畑荒地其外極貧者救助のため貸付、
卯年(安政二年)より一〇か年賦返納。
麦九斗一合、稗七二石八斗五升一合、家数八三軒人数
四〇一人の極貧者ヘ対し貯穀貸付、一〇か年賦。
金一六両、潰家・半潰家の者ヘ小屋掛費用貸附、一〇
か年賦。
恵済倉の設立計画
 このような救助に、代官所は貯穀底を叩
いて出しきっている。その上この大地震に
続いて翌二年には、水災風難があり、またまた九月二八
日地震があり、この年から返納の年賦金等も年延ベせざ
るを得なかった。鶴梁はかねがね備荒貯穀を心がけてい
たのであるが、安政のこの大地震に際会し、その必要を
痛切に感じたのであろう。災害は何時おこるかわからな
い。貯穀皆無では何ともしがたい。そこで自らも私金一
三〇両余を投じ、有力者にも協力を求め、恵済倉の設立
を計画したのである。未だ幕府の允許を得ないうちに転
任になった。安政五年五月五日、転任にあたり、恵済倉
設立の趣旨を述ベ、後任にその継承を要望し、恵済倉の
記を書きのこしている。鶴梁は善政をしき、碑銘にもあ
るように遠三の人々から福星とまで仰がれた名代官であ
る。「徳川幕府県治要略」にも、羽倉簡堂と共に名代官と
して挙げている。中泉在任中の功績として恵済倉の創立
は高く評価されているが、恵済倉については、すでに「磐
田郡誌」を始め「中泉町誌」、「磐田市誌」に詳述してあ
るので割愛する。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 525
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