[未校訂]二 嘉永の地震の概要
(注、「新収」第五巻別巻五―一、九九九頁上2以下の原
文の一部を意訳したもの、省略)
三 釘ヶ浦三地域の書証
今、この地震について釘ヶ浦三町(大井川・吉田・榛原)
の①震害②地変③津波④その他、に分けて資料から[抄|しよう]
[出|しゅつ](ぬきだす)してみると次のようになる。
1 吉永・飯渕・下江留・藤森(大井川町)
(1) 震害
吉永村(地震取調集) 当村田所之事一統田面ハ上下
之別なく中高(隆起)中久[保|ぼ](かん没)之場所多く出来
る……。
村中家数百軒余も大小共潰れニ及[悉|ごとごと]く大破……。
氏神ハ両者共無御別条、[尤|もっとも]両社御鳥居大破及砕失
東神主宅ハ破落致し並本山高岳寺ハ庫裏一ヶ所破落
致シ、末寺正泉寺本堂不残及大破モ外寺ハ別状無之。
飯渕村(吉永村誌) 潰家多ク飯渕ニハ九戸アリ。
下江留村(相川村誌) 当村百四十軒内七拾軒潰れ、
七拾軒半潰ニ相成候。地割一面にて是れより水吹出
し…。
藤守村(静浜村誌) 家居潰四十八軒、居家半潰弐拾
三軒、小家潰十二軒。
(2) 地変
相川村(相川村誌) 地割一面にて是れより水吹出し
田畑二百石程荒地に相成。
吉永村(地震取調集) 麦田畑共調度五月之代田ヲ見
るが如し。吹出し泥水[澱|よど]ミ……。
(3) 津波 記事なし。
(4) その他 (震度の推定)(被害状況から)
吉永村(地震取調集) 凡村中家数百軒余も大小共に
潰れ、悉く大波。推定震度七。
飯渕村 震害より考え震度六。全戸数不明のため。
下江留村 震害より震度七と推定。
藤守村全戸数は不明であるが潰家の多い所より震
度七と推定。
2 川崎、榛原の村村(榛原町)
(1) 震害
川崎町・柏原町・柏原村(地震年代記)相良川崎辺は
我里よりも地震甚しくして破壊せざる家は僅に三・
四軒ずつのみ(大地震極難日記目録)河崎町、同断(壊
家多し)
福田の掉月庵・西町の東光寺と釣学院・島の西光寺
等の堂塔一時に倒れる。
榛原(大地震之事)、榛原辺の大家小家一同[惣潰|そうつぶれ]、山
の手辺ハ格別の事なし。併し少少の痛みは一同の事
也。(甲寅秘抄)榛原村村…潰家・倒家破損等[夥敷|おびただしく]有
之。浜手は別而強、人家潰申候。
大地は泥水をはき。各村の家家は殆ど傾き倒れる。
(2) 地変
榛原郡川崎町長中山猪蔵報告(明治25・11・8)静波
海岸安政時に約三尺隆起。
(3) 津波。記事なし。
(4) その他。
川崎辺 地震年代記より震度は七と推定。細江・坂
部に記録なし。
朝生村 五十軒の中、居宅全壊十五軒、半壊四、納
屋・雪陰に被害。震度六~七。
榛原郡 全体では「大地震之事」にある通り海岸沿
いが大きな被害をうけた。
3 上下吉田村、与五郎新田・青柳村・川尻村(吉田町)
(1) 震害。
下吉田村(町史稿) 瓦ぶきの家は全滅し、残った板
ぶき[茅葺|かやぶき]の家も大方傾き。
(町史料一集) 呑海寺安政地震で潰れる。
与五郎新田(町史稿) 助かった家は数える程しかな
かった。
青柳村(同 前) 倒れなかった家は四・五軒。
川尻村(同 前) 正雲寺大破。
(2) 地変。
上下吉田村(町史稿) 大地はさけて泥水をはき…
吉田村長吉永七六報告(明治26・6・20) 五十年以
来、海底六尺浅くなる。
(3) 津波
吉田村長吉永七六報告(明治26・6・20) 安政時に
小津波あり、…
(4) 震度の推定
上下吉田村 瓦葺きの家は全滅し、その他の家も傾
き、寺が潰れるなどより震度は六。
与五郎新田・青柳村 助かった家は数える程しかな
かった。倒れなかった家は四・五軒位とあり、(推定
震度七)。
(5) [口碑|こうひ]。隣町や本町の記録と矛盾する所があるが参
考までに[掲|かかげ]ると、
(イ)あちこちに地割れがし寒い夜幾日も竹[薮|やぶ]や木の
根のはった所で寝る。(ロ)津波が起こり住吉大浜「新
開」で高波が打ち「浜田」は水に浸り稲の葉が僅か
に見えた。(ハ)村の人人は津波を恐れお宮の森へ避難
した。能満寺へ逃げた人達は吉田田圃で津波に襲わ
れ殆ど溺死した。(ニ)一面が水でお宮の森が浮いて見
えた。それから「浮宮様」と呼ばれるようになった。
(ホ)寄子川は水が溢れ船が慶林の松原に打ち上げられ
た。(広報よしだ「史話」より)これらの口碑は不合
理な点が多い。
四 震災後の住居
郷土ではこれより先、約二十年余り前の文政九年(一八
二六)元旦に唐船が漂着して大騒動があり、それから十年
たって大塩の乱とモリソン号事件(一八三七)、更に約十
五年後に日米和親条約の締結と安政の大地震が発生を見
た。対外的な事件は余り気を止めなかった農村も次次と
起こってくる重大事件に、容易ならざる事態が到来する
であろうと感ぜざるを得なかった。
特に安政の大地震が足元から起こったので[眉|まゆげ]に火のつ
いた感がしたであろう。
まず地震のすさまじさに気を失った。「地震年代記」終
わりに「此地震に[逢|おお]て後、地震を恐る事[甚|はなはだ]し。…故に後
世人々地震を[忽|ゆるか]せに思はざらしめんが[為|ため]に、古来よりの
地震及び今般の地震の次第迄を[尋|たずね]求め、[聞究|きききわ]めて[拙|つたな]き筆
に模写」したとある。常に準備を怠るなと説く。この地
震を安政の地震と呼ぶのは嘉永七年十一月四日に天地鳴
動し十五日まで続き(二十四日安政と改元)十二月十一日
には伊豆で地震があって死者や怪我人を出す。安政二年
[乙卯|きのとう]正月二十七日夜、駿遠両国特に大井川の川辺の村村、
家居、土蔵等が破損したので嘉永から安政にかけての大
地震という意味から改元後に安政の名をつけたものであ
ろう。
この恐怖心からさめた時、第一は対震建築はどうすれ
ばよいかが庶民の課題として登場した。住居を建てる場
所・建て方・[間|ま]取り(農作業も考えて)防火対策など地震
後に建てられた家家はこの点が[工夫|くふう]された。江戸初中期
と違った農家建築が増えてきた。
注、安政地震資料。この地震については相良では香川[盧|ろ]角の
地震年代記の外、林昌院・大沢寺・下村家・相良御役所な
どの所蔵古文書があり、各村村の災害状況がわかり、勝間
田では朝生村の災害が詳細に報告されている。しかし、郷
土における詳細を書いたものはまだ見当らない。)
参考文献
地震年代記。 朝生村の被害。