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項目 内容
ID J2700195
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/07/09
和暦 嘉永七年六月十五日
綱文 安政元年六月十五日(一八五四・七・九)〔伊賀・伊勢・大和・山城・近江・河内〕
書名 〔大山田村史 下巻〕○三重県大山田村史編纂委員会S57・3・30 大山田村発行
本文
[未校訂]その他の災害
○安政元年六月十五日
 「日本地震史料」によると「伊賀伊勢大和ノ諸国地大
ニ[震|ふる]フ。[就中|なかんづく]伊賀西北部大和東北小部山城南東端近江南
部ヲ包括スル長サ約八里幅約四里の区域ハ震害特ニ甚シ
ク山崩・地割、土地隆起陥没等ヲ生ジタリ、伊賀上野城
大破シ城内ニテ二三百人ノ死者アリ 上野町及ビ其ノ近
村ニテ死者五百九十三人、潰家二千二百五十九戸ヲ算ス
(以下略)」
 とあり、震源地は上野付近を東西に走る線と推定され
ている。この地震を安政の大地震とよんでいる(安政に改
元されたのは十一月二十七日だから正確には嘉永七年で
ある)。
 本村における地震の模様は、明治三十四年に記述され
た「郷土誌」によると、八一歳の老媼(安政地震当時二四
歳)の話として「六月十四日は山田の祇園祭にて祭礼も済
み楽しく晩餐を喫して寝に就きたり、熟睡せる中、丑刻
(午前二時)ばかりに天柱くだけ地維さけたるが如く大地
震動して家は波に揺らるる船の如く凄ましき物音に目を
驚かされ家出んとすれば足の踏む所を知らず、七転八倒
して辛うじて外に出でたり。人々は竹薮に避難し蚊の鳴
くが如く念仏を唱へ、子供の泣き声と和して最も哀れな
り、しかも十四日より十八日に亘りて絶えず震動を続け
たり」とあり、この地震の激しかった様子を知ることが
できる。しかし、人的・物的にも被害は軽微であったの
か、そうした記録は記されていない。
総戸数の1―100以上潰れたる区域
総戸数の10―100以上潰れたる区域
震 央 (今村博士による)
安政元年6月15日大震々域
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 408
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 三重
市区町村 大山田【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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