[未校訂]安政の大地震
伊賀地方を襲った嘉氷七年(一八五四)六月十三日に初
まる大地震(俗に安政の大地震という)は、福永正三著「秘
蔵の国」によれば「この地震の震央は、伊賀上野付近と
想定され、[野間|のま]では、戸数六〇戸のうち四〇戸が潰れ、
隣りの[三田|みた]では、九三人の圧死者を出した。前兆は既に
十二日からあり、十三日には、二十数回にわたる強度の
前震があった。十四日は比較的静穏で、人びとを安心さ
せていたが、夜中の[丑三|うしみ]つ[刻|どき](十五日午前三時)になって、
壊滅的な本震に襲われた。
大地震のときは、濃尾地震の根尾谷断層のように、震
央付近に地震断層のできることがある。安政地震でも、
上野北方に長さ約一キロメートル、幅約二百メートル、
高低差最大一・五メートルの断層が、西南西から東北東
方向にできた。その方向が、木津川断層の方向と一致す
ることから、地震の原因は木津川断層の活動に帰せられ
ている」と述べている。
「庁事類編」には、
嘉永七甲寅年六月十三日、大地震ニ付上様御立退き
被遊候事
六月十四日大地震之事 △上行寺御霊損所相調候も同
日 △赤坂御別荘損所相調候も同日 △津表御家門様
ゟ御見舞御使者追〻被進候事
このほか、地震の善後策の記述が約九十項目にわたり
記され、この日の項の最後に「大地震ニ付六月十四日ゟ
七月朔日迄筆記無之候之事」と記されており、城代家老
日記「庁事類編」は、以後七月二日まて書かれていない。
このことからも、この地震による被害の大きさが察せら
総戸数の1―100以上潰れたる区域
総戸数の10―100以上潰れたる区域
震央
(今村博士による)
嘉永7年6月15日大震々域図
れるのである。
また、上野市北郊の服部川畔に、上行寺住職によって
建立された法華経塔の碑文によると、死者五九五人、負
傷者九六五人、家屋の倒壊二〇二八戸とあり、その惨状
がつぶさに刻まれている。
さらに、当村と地続きの奈艮県添上郡月ケ瀬村の今西
伴介という人の「地震帳」に当時の状況が克明に記述さ
れている。月ケ瀬村稲葉長輝氏のご好意によりこの手記
を掲載させていただく。
地震帳
嘉永七年甲寅六月
和州添上郡月之瀬村
今西伴介
大地震之事
六 月
一、十三日ひる九(正午)ツ時大ぢ志ん 同日ひる八ツ時に大ぢ
志ん 是より山なりぢ志んかずしれず
一、十四日ひるよるに山なりぢ志んかずしれず
一、十四日よるの(午前二時)八ツ時に大大大大大大大をうぢ志んに
付ゑ(家)こけくらこけ小やこけ石がけくゑは
志すたり 山くゑ 大石まくれ うし む(う)ま いぬ
ちん ねこ までもふるへけり にはとりもような
かず せかへ(い)にわ人志(死)にもあまたをうし せかへ(い)に
わけが人もあまたをうし 村中のもの共のこらずわ
がうちヲにげいて申候ところ、みちわれ、山われ、
はたけすたり、石まくれ、大ぐゑにて 身のをきと
ころなし、ところ〳〵江すがりいいたし、すやをか
け凡十日はかりも野宿いたし申候、男女共々にて日
をくらしつゝ夜ヲあかしつゝ心ぎやう、ふどうむや
うゝ念仏こゑばかりなり
一、十五日ひるよるに山なり大ぢ志んかす志れず(一六
日、 一七日、 一八日、 一九日、二〇日、同文の記述
あり)
一、二十一日ひるよる山なり大地しんかず志れず同日
よる五(二十時)ツ時大大ヲ地しん
一、二十二日ひるよるに山なり地しんかず志れず同日
安政大地震法華経供養塔
上野市服部川原、旧奈良道の
西北の傍にある。
くれ六(十八時)ツ時より大あめ
一、二十三日ひるよるに山なり地しんかず志れず、(二四
日、二五日、二六日、二七日、二八日、同文の記述
あり)
一、廿九日ひるよるに山なり地しん凡七八十
一、晦日ひるよるに山なり地しん凡七八十
七月
一、朔日ひるよるに山なり地しん凡七八十
一、二日ひるよるに山なり地しんかず凡七八十
一、三日ひるよるに山なり地しんかず凡六七十
同日よる大あめ
一、四日ひるよる山なり地しんかず六七十
一、五日ひるよるに山なり地しんかず六七十
一、六日ひるよるに山なりかず六七十、同日ひるの四(九時)ツ半
時大地しん
一、七日ひるよるに山なり地しんかず凡五六十(八日、
九日、十日、同文の記述あり)
一、十一日ひるよるに山なり地しんかず凡四五十
一、十二日ひるよるに山なり地しんかず凡四五十
同日よるの(午前二時)八ツ時大地しん
一、十三日ひるよるに山なり地しんかず凡四、五十
同日くれ六(十七時)ツ半時大地しん
一、十四日ひるよるに山なり地しんかず凡三、四十(一
五日、一六日、一七日、同文の記述あり)
一、十八日ひるよるに山なり地しんかず凡二、三十
一、十九日ひるよるに山なり地しんかず凡二、三十
同日朝六(午前七時)ツ半時大地しん
一、廿日ひるよるに山なり地しんかず二、三十
一、廿一日ひるよるに山なり地しんかず二、三十
一、廿二日ひるよるに山なり地しんかず凡二、三十
同日朝四(午前十一時)ツ半時大地しん
一、廿二日ひるよるに山なり地しんかず凡二十
嘉永七年月瀬村今西伴介地震帳
(二三日より晦日まで同文の記述あり)
閏七月
一、朔日 ひるよるに地しんかず十四、五(二日より五
日まで、同文の記述あり)
同日ひるの八(十三時)ツ半時大地しん
一、七日 ひるよるに地しん十四、五(八日より一〇日
まで同文の記述あり)
一、十一日 ひるよるに地しんかず凡十、(十二日より一
九日まで同文の記述あり)
一、廿日 ひるよるに地しんかず凡十 同日朝六(午前七時)ツ半時
大地しん
一、廿一日ひるよるに地しんかず凡十 同日朝七(午前五時)ツ半時
大じ志ん
一、廿二日ひるよるに地しんかず凡十 同日朝五(午前八時)ツ時大
地しん同日ひる九ッ半時大じ志ん
一、廿三日ひるよるに地しんかず凡十 同日ひる七(十五時)ツ半
時大じ志ん
一、廿四日ひるよるにぢ志ん凡十 同日朝四(十時)ツ時に大ぢ
志ん
一、廿五日ひるよるにぢ志ん凡十
一、廿六日ひるよるにぢ志ん凡十
一、廿七日ひるよるにぢ志ん凡十
一、廿八日ひるよるにぢ志ん凡七ツ八ツ(二九日より八
月三日まで、同文の記述あり)
(八月)一、四日ひるよるに地志ん凡七八ツ 同日ひる(十六時三十分)七ツ半時
大ぢ志ん
一、五日 ひるよるにぢ志ん凡七八ツ(六日より一五日
まで同文の記述あり)
一、十六日ひるよるにぢ志ん凡七八ツ 同日ひる(十六時)七ツ時
大ぢ志ん
一、十七日ひるよるにぢ志ん凡七八ツ
一、十八日ひるよるにぢ志ん凡七八ツ
一、十九日ひるよるにぢ志ん凡七八ツ同日大あめ
一、廿 日ひるよるにぢ志ん凡七八ツ同日大あめ
一、廿一日ひるよるにぢ志ん凡七八ツ(二二日より九月
九日まで同文の記述あり)
(九月)一、十日ひるよるにぢ志ん凡七八ツ 同日よる八ツ時大
ぢ志ん
一、十一日ひるよるにぢ志ん凡七八ツ
一、十二日ひるよるにぢ志ん凡七八ツ 同日よる八ツ時
大ぢ志ん
一、十三日ひるよるにぢ志ん凡七八ツ
一、月之瀬村領地けつね岩此岩高サ凡五十間斗リ岩かけ
の上ニ八丈敷斗りらい地ある岩是まくれくずれ申候
一、月之瀬村領地をくの谷吉野溝山大くゑニテそこより
大岩でゝ来り峰の大岩かんりき山此時ではる山のす
そわ大川江つき出シ申候
一、むかへ山の八幡山大石の岩かずかず是あり申候処是
まくれくずれ申候
一、むかへ山三ツ岩三ツかさの大高名石是まくれ申候
一、むかへ山ゑぼ志岩是まくれ申候
一、嵩山村領志やく志岩まくれ申候
一、嵩山女夫岩是まくれ申候
一、嵩山おうかめ岩まくれ申候
一、田山村領おうかめ岩五十丈敷斗りの岩屋是をちつき
申候
一、□ケ峰桝がたの岩屋是少シ下り申候
一、石打村ニ而田地弐百荷七尺斗リ下リ申候此中に田地
三拾荷深サ八尺の池になり申候
一、かさき山の高名石是まくれ申候
一、上野御城の石かけくずれ申候
一、南都興福寺のもんへ(塀)にこけくずれ申候
一、南都元かう寺塚はらの家根壱たんをち申候
当村における地震の記録については、「嶋ケ原下村諸帳
面引渡帳控」(史・26)に「安政二卯年大地震本潰家半潰
死人、壱冊」とあり、その当時の状況を庄屋が書留めて
あったものと思われるが、現物は散逸しているのは惜し
いことである。また、元高坂神社の文政二卯歳八月十七
日の棟札(鸕宮神社蔵)の裏面に「嘉永七寅六月十四日暁
地震にて石垣神垣崩落る」と追書され、その状況を物語
っている。
死亡者については、西念寺、善福寺の過去帳によると、
三二名の人が六月十五日に死亡している。この死亡者を、
地区別にみると右のとおりである。
死亡者の大半は、断層崖下の地域に居住する者で、家
屋の倒壊や、落石による圧死が多かったといわれている。
記録としては残っていないが、多数のけが人も出たもの
と想像される。