[未校訂]その後の震き
ついで、弘化四年(一八四七)三月二十
四日午後九時、信濃千曲川沿岸を震源
地に地震が発生し、震災地を通じて潰家三万四千戸・死
者一万二千、長野市内各所から出火し、山崩れや水害が
甚しかったが、当地方は、内仏の花瓶・燭台が倒れた程
度であった。しかし、
四月朔日、草生津川原にて山本帯刀殿組操練有之処、
朝、信州の湛水押来り、一時に四、五尺の出水、泥水
の中に家屋の建具・家財諸道具流れ流、死人馬も多く
見ヘたり。追々水嵩み、四ツ時分には川原一円に水溢
れに付、操練も相止、前代未聞なり。
(著者蔵文書)
その惨状を伝えた。これを信濃地震または善光寺地震
ともいっている。本大島高橋家の「稀成事書証覚」には、
「此辺、水流来るは朝(四月一日)五ツ半時頃、流水の高さは四尺余、
流くる家道具・簞笥・長持・手箱之類流れ来りとも取来
らず」ともある。