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項目 内容
ID J2700091
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1792/05/21
和暦 寛政四年四月一日
綱文 寛政四年四月一日(一七九二・五・二一)〔島原・肥後〕
書名 〔江戸参府紀行〕シーボルト著・斎藤信訳S56・3・1 平凡社
本文
[未校訂](文政九年正月九日の項)
二月十五日(中略)
 一七九二〔寛政四〕年の恐ろしい爆発以来、雲仙岳はこ
の地方の住民にとってひとつの悪夢となった。その険し
く荒涼とした山容、陥没した広い噴火口、絶えず煙や蒸
気を噴出し、それが集まって霧のような雲となっている
が、こんな情景は、かつて大きな破壊がこの火口から起
こり、また新たにこうした破壊が起こりはしないかと、
日毎に気づかっていることを告げている。もし人々がこ
の火のカマドを裂目のある地形をなして取り囲んでいる
海岸地帯に近づき、陥没した山塊が海からそそり立ちそ
して新しい火口がそこに口を開いているのを見、その周
辺には内部で煮えたぎっている火山流動体の爆発を抑え
るだけの充分な土塊がないことを知れば、この不安はな
おさらもっともなことであると思われる。そして山の斜
面の周囲から溢れ出る多量の沸騰する熱湯を認めれば、
いっそうその感を深くする。新しい破壊の危険は絶え間
ない大地の震動によっていちだんと切迫し、それがしば
しば増大して激しい地震となり、それに新旧火口の爆発
を伴うのである。
 われわれが歴史上知る限りでは、前世紀の終りに雲仙
岳は初めて活動した。しかしすでに、千年以前にこの山
が活動したことは疑うべくもない。なぜなら、文武天皇
(Mikado Monmu)の時代、すなわち七〇一年にこの山
の霊のためにひとつの祠が海岸に建てられ、この地方の
住民は収穫の[初物|はつもの]を山の霊に供えた。古い神道の考えで
はこの種の崇拝は、怒れる山霊をなだめることを目的と
するもので、それゆえにこの事実は有史以前の爆発や荒
廃を暗に示すものである。しかしながらわれわれはこの
火山のいっそう古い活動の証拠をたんに先史時代の伝説
や近世の年代記に求めようとしているだけではない。こ
の半島の全容がそれを証拠だてているし、さらに九州の
大部分の成因も、年々新旧の火口からいまなお爆発が起
こっているたくさんの活火山や休火山とともに、それを
証明しているからである。雲仙岳は、モルッカ諸島から
フィリピン・琉球を通って日本列島に至り、千島に沿っ
てカムチャツカに達し、さらに北方の永久にとけること
のない氷の中に消え去っている火山帯の間歇的な噴出の
ひとつにすぎないのである。
 一七九二年、雲仙岳の歴史的に確認されている最初の
爆発について次のようなことが報告されている。寛政四
(一七九二)年一月八日の午後五時であった。とつぜん雲
仙岳の山頂が陥没し、水蒸気と噴煙がたちのぼった。そ
の後しばらくして翌月の六日に、山頂から約半里はなれ
た東斜面にあるビオノクビ(Biwonokubi)という山が爆
発を起こした。三月二日には全九州で人体に感じる地震
が起こった。島原地方は激震で人々は地面に立っている
ことができないくらいだった。おののき震え狼狽せぬ者
はなかった。地震が次々におこり、火山は絶え間なく石
や灰や溶岩を噴出し、そこから数マイルも離れた地方を
破壊した。四月一日の正午、またもや地震が起こり、次
第に激しくくりかえされ家は倒れた。とてつもない岩の
塊が山からころげ落ち、それをさえぎっていたすべての
ものをうち砕いた。地底でも空中でも砲声に似た轟音が
聞こえた。それからしばしの静寂がおとずれ、人々は危
険が過ぎ去ったのだと思った時、突如として雲仙岳の南
斜面にある妙見山(Mjōōkenjama)がはげしい爆発を起こ
し、この山の大部分は空中に飛び散り巨大な岩石は海中
に降り注ぎ、煮えたぎる熱湯がひびわれのした山の裂目
からほとばしり出て海に流れ込み、同時に海水は低い沿
岸部に氾濫した。ふたつの水がぶつかり合って起こった
現象はまことに奇妙というほかはなく、そうした事態は
はじめの狼狽をなおさら大きくした。[竜巻|たつまき]に似た水の渦
巻ができ、その渦が通過して行ったところ、すべてのも
のが破壊され何ひとつ跡をとどめなかった。地震と雲仙
岳やその側方火口の爆発がその年に島原や対岸の肥後国
に及ぼした破壊は実に筆紙につくし難かったという。島
原の町とその周辺の地方では建物という建物はすべて倒
れた。ただサイクロプス様式の巨石からできていた島原
の城壁だけは全般にわたる破壊にもびくともしなかっ
た。肥後の沿岸は災害によってすっかり変わり果ててし
まい、ほとんど見わけることができなかったほどである。
五万三千の人がその日に難に遭ったということである。
このような事件によって日本人は地震や火山の爆発を日
本の七つの災禍のうち最も恐ろしいものと認めざるをえ
なかったのである。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 97
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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