[未校訂] これから四年後、宝永四年(一七〇七)には十一月の富
士山噴火に先立って、十月四日東海・南海沖が震源地と
みられる大地震が起こった。東海道以西に大きな被害を
及ぼしたこの地震の甲府における状況は、公的記録とし
て甲府山田町名主の「御用留」にみることができる。早
速町奉行所から被害状況の調査があり、山田町では皆
潰・半潰の家数一四軒を書き上げて、当時の同町の家数
五八軒からすると、全半壊率は二四パーセントであった
ことを示している。城下全体の様子は定かでないが、お
そらくかなりの倒壊家屋を算したであろう。その後も余
震が続いたためであろうが、倒壊による火災防止の上か
ら、火の元に対する注意、名主が各町内の見廻りをきび
しくすること、水籠や手桶に不足しないよう留意するこ
となどの町触がしばしば発せられていた。