[未校訂] 本町に於ける被害については、『史料集』文書六〇 に
沓見村上組の被害状況が記録されており、六八軒中内藤
家一軒を残して六七軒が潰れ、死者も三九四人の中九人
は「相果申候」とある。家畜についても馬一九疋の中七
疋、牛二五疋の中八疋が圧死し、田畑や溜池にも大被害
を蒙り、販売のために浜へ搬出して積んでおいた薪が五
百~六百束も覆ってしまったような状態で、年貢等にも
困り生活上重大な影響を受けたと、生々しい地震の爪跡
津波よけとして築かれた土手(渋田「殿山」地先)
を残したように伝えている。また、土地の隆起に関して
は、元禄地震後四四年の延享四年(一七四七)に、鋸南町
元名村の古文書「乍恐口上を以て御願申上候」に、丸山
川河口の海発附近で元禄汀線を五・三八メートルも隆起
があったとする説もある。(松田時彦・太田陽子氏等)
しかし、『大日本地震史料』には「千倉と申す浦辺より
平郡・安房郡浦方……」と、大きな隆起地域の分布を限
定し、丸山川下流より北部での隆起の有無には触れてい
ない。