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項目 内容
ID J2601934
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1922/12/08
和暦 大正十一年十二月八日
綱文 大正十一年十二月八日(一九二二)〔島原半島〕
書名 〔みなみくしやま 南串山町郷土誌〕○長崎県馬場賀臣編S60・5・31 南串山町発行
本文
[未校訂]島原半島大地震
 大正十一年、島原半島全域を恐怖の渕にまきこんだ大
地震を記念するため、志々岐神社境内に碑が建立されて
いる。建立者の記名がない。
 大正十一年十二月七日午后四時頃かなり強い地震があ
った。その夜(八日)午前一時五十五分強震があり、無気
味なうなりとともに、家が揺れきしむ。人々は戸外にと
び出し不安な一夜を過ごした。八日朝、雲仙岳から千々
石灘にかけて低い濃霧が這うように流れていた。目撃し
た者は雲仙岳が爆発するのではないかとささやいてい
た。
 交通、通信は全く断絶し、郡内各地の被害状況がうす
うす伝えられる頃、午前十一時になって又激震があり、
屋根瓦が落ち、石垣が崩れ、家屋が倒壊した。村内の小
学校は休校となった。
 島原新聞には、西目串山地区には流言蜚語多しとの記
事がある。「今夜雲仙が爆発するとか、海岸付近に棲息
する動物(兎ねずみ)など山の方に逃げるのを見た、必ず
大津波が起る。」流言に不安は一層つのり、海岸沿いの
人は高地の畑に緊急避難所を造り又一般も戸外に夜間の
避難所を作った。その後も余震が気味悪いうなりととも
に続いていた。
 十二月十日午後五時長崎測候所は「十日夜半まで震動
は千余回であるが今後強烈な地震は大体終ったものと観
測する。但し余震はなお継続する」と発表した。これに
よって人々は落つきを取りもどした。
 ○南串山の被害―負傷三名・住家全壊九戸・住家半
壊一〇戸・小屋半壊七戸(特に塚の山が強震で被害
も多かった)
県道では赤間波止附近の崖が大きく崩れ、その他
倉越、後山などで、県道不通となる。塚の山部落の
大部分の家屋は半壊その他被害を受けた。田畑の石
垣、屋敷の石垣など崩れたところが数多い。
(地震が終った後、ジャッキを利用した家おこし業
者がしきりに活動した。)
○郡内の被害―死者二五名・重軽傷者四六名・倒壊
家屋一五六戸(半壊一四六四戸)・道路六二〇ヶ所・
石垣三一七ヶ所
○被害の多かった所―小浜(北村)、北有馬(田平橋
口)、西有家(龍石)、南串山(塚の山)などである。
○地震の調査―東京大学の大森博士、京都大学の小
川博士、中央気象台長の中村博士、前田長崎測候所
長、九州各所長、朝鮮総督技師、駒田理学士(土黒
出身)、その他我国地震学の権威者が多数来島調査
した。
○原因―大森房吉博士は、温泉岳に基因する火山性
の地震であるとの見解であり、中村博士は千々石灘
海底の地すべりであるとの説を発表されたが、双方
とも今後大規模の地震となる心配はないとの事で、
両博士の見解が異なった。
○地震見舞―天皇陛下より御見舞金として千五百円
を下賜せられ、松浦侍従を差遣せられ十五日来郡さ
れ慰問された。
(島原毎日新聞記事による)
出典 日本の歴史地震史料 拾遺
ページ 453
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長崎
市区町村 南串山【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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