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項目 内容
ID J2600901
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1819/08/02
和暦 文政二年六月十二日
綱文 文政二年六月十二日(一八一九・八・二)〔美濃・尾張・近江・大和・京都・伊勢〕
書名 〔妙楽寺史妙楽寺と伊庭〕○滋賀県伊庭村藤葉性信著S52・2・11 妙楽寺発行
本文
[未校訂] 文政二年(一八一九)六月大地震によって本堂が倒壊し
た。この地震は浄福寺のみ残り、法光寺、誓教寺も倒壊
したと伝えている。それ以後地震に強い本堂をとの願い
で、当時の建築技工を傾注したと伝えられ、先づ法光寺
が建てられた。その後誓教寺、源通寺が建てられたと伝
称されている。地震に倒壊した妙楽寺を伊庭庄全村民挙
げて再建につくされたのである。本堂の一々を見ても立
派なものを用い、木材も最高のものであり、彩色も彫刻
も最高に造り上げ、他に誇ることの出来る立派な本堂を
建造されたのである。これは全村民が一致し、念佛法義
の聴聞の場とし、生活指針の場とし、村民の安らぎの所
として全力をつくしてのこして下さったお蔭である。だ
から妙楽寺は、古来より村の人々の生活の中心であり、
仏法聞法の場となって、村民の人々と一諸に歩んできた
寺院であった。即ち、妙楽寺は村の一人ひとりのもので
あると言うことが出来る。
 古老の話によると、木材を西江州に注文したが、なか
〳〵届かず、木曽に注文したところ同時に木材が届いた。
当寺はその中より材質を選り吟味しての建立だと言うこ
とである。
 天保五
甲午
年(一八三四)三月十六日に本堂柱立が行わ
れた。本堂御尊前上の天井に門信徒法名の列記している
板に、本願寺金参拾両、御領主金弐拾両と書かれている。
また、千人講がつくられている。
口演
一去ル卯六月地震ニ付當寺本堂及大破此度再建致度処元
来小門徒故難叶自力願他之御助力成就仕度 如ク
左之奉加講仕法致シ候。何卒御加入可被下候様偏ニ希上候。尤御加入被成下候御方様ヘ為報謝俗名法名経御届堂棟木ニ書記シ永代毎年三月ニ可令読経候已上一千人講七會
第一番金三両 金三両 
二番ヨリ
九番迠
 金壱歩ヅヽ
第十番壱両 壱両 
十一ヨリ
十九迠
 金壱歩ヅヽ
第廿番金壱両 金壱両 
廿一ヨリ
廿九迠
 金壱歩ヅヽ
第三十番 金五両
右之通當り候御方様ヘ返進仕候
江州伊庭村 妙楽寺役者 世話方
文政四巳年
天保八年(一八三七)頃一応の落慶をみているが、それ
以後も本堂完成に力をそゝいでいる。
 本堂再建の大任をはたした第十六世、至心院性眞法師
は天保十四年(一八四三)四月十九日御往生された。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺
ページ 222
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 滋賀
市区町村 伊庭【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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