[未校訂]一、文化の大地震
文化七年八月二七日(一八一〇)、寒風山を中心として
大地震がおこった。北羽発達史によると四辺の各村落は
大損害をこうむり、南秋田、山本郡の潰家屋一、四三三
戸、破損家屋四八〇戸、死者六一人、けが人一二二人と
記録されている。菅江真澄遊覧記「男鹿の寒風」には、
翁が男鹿へ来てたまたま地震にあい、目の前に見た惨状
を日記に残している。
「………八月二七日、滝川の目黒家にきた。午後二時
すぎ地震が大ゆれにゆれた。………わけても脇本、舟越
などの家々がほとんどひしひしと倒れたという。中石、
高屋、橋本、谷地、石神なども相当に倒壊したという。
ところどころに死者が多く、辛うじて命は助かった人々
は手足をいため、馬などは腹割け、脚折れて死んださま
など見るに忍びない………かりの住居して田畑の仕事な
ど手つかず………すでに神無月(一〇月)にもなったが、
地震はなおやんでいない。」
このあと翁は寒風山の東麓を回って潟西の宮沢へ逃れ
て漁師の家(現、畠山已代治氏宅)で、この年を過ごし、
翌八年の正月を宮沢に留まって、民俗風習を探り、なま
はげの習俗も見ている。
当時の資料によれば、現若美町区域(払戸村、福川村、
角間崎村、鵜木村、松木沢村、本内村、福木沢村、野石
村)の損害は次のようである。
潰家 一八六棟 半潰、大破 一八一棟(土蔵、小
屋等を除く)
死者 男八、女六、計一四人、 けが人 四三人