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項目 内容
ID J2600814
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1804/07/10
和暦 文化元年六月四日
綱文 文化元年六月四日(一八〇四・七・一〇)〔羽前・羽後〕
書名 〔鳥海町史〕鳥海町史編纂委員会・鳥海町企画課編S60・11・1 鳥海町
本文
[未校訂]○文化元年(一八〇四)六月廿三日、従御在所御飛脚両人
到着致候。右は当月四日亥七刻頃大地震有之候段申来。
尤御隣本庄・平沢・三森・塩越・伊勢井地、其外海辺
大痛之由。御領内其外所々少々ツゝ痛候由、御用状に
委申来ル。(享和四年親章公御代江戸御納戸日記抄)
 これが世にいう文化元年の象潟地震である。この地震
は震源地が近いだけに当地にも大きな影響を与え、人々
を恐怖に落とし入れたことが次の文書からも察知するこ
とができる。
一文化元年甲子六月四日、夜九ツ時大地震、所々の土蔵
の欠落、或は石垣崩れ地裂る。矢島郷領分にて半潰拾
三軒、濁川村に潰家五軒、半潰弐軒、熊の子沢に潰家
壱軒、長穂田に半潰壱軒、百宅村に半潰壱軒御座候へ
ども、人馬怪我無是候。隣国庄内ハ大破に痛み、夜よ
り同七日迄に折々強く震う。六、七十日余、小しずつ
動き申候。(矢島町木村昌二家文書)
○文化元年甲子ノ年六月四日、よるの四ツ時分、大じし
んあり、田地ハいたみ、仁賀保は五十三ケ村皆不残大
寺共につぶれるなり。家ハやけ、人ハ死ぬなり。馬ハ
しぬなり、八十八潟九十九森田地也
(佐藤金平家文書 一)
書付之覚
一文化元年甲子六月四日、夜の四ツ半過、従大地震、半
時斗疎 リ。少々宛日数八日ケ間近国及大変、田畑山
崩、人馬痛ミ。
印書一、矢島領御家中共ニ、土蔵無残壁落申候。当村
ハ中平より田西滝之沢近く大痛、其外長根崎掛田、谷
地田地割し申候。中痛ハ泥をかぶり、壱ト元宛起し候。
田植仕舞より廿日余ニて草取り之節ニ御座候。一、川
原ハ地震痛多ク無是之候怪我無し。一、にごり川家七
軒潰レ、人馬けが無し。本庄御領大痛ミ、矢島御米蔵
さけ、米千五百表すかへ表被仰付、御用所へ上納致候。
本庄御領右之通しゆんし大痛。一、仁賀保塩越大痛、
家弐拾軒斗残、其外無残潰レ、人百四人押死、所々火
事。平沢より小砂川内郷共、右之通り之痛、壱女他処
人死人知らず。 (土田彦吉家文書 一五〇)
地震書付覚
一頃は文化元年甲子六月四日、夜入四ツ半過、従大地震。
半時程ハ甚敷、何れも本心無是親子見向も無程ニて、
家ニて居兼、外ニ出、疎ふり少々宛、日数八日間動、
近国及大変田畑山崩、人馬怪我痛之印書。
一矢島御領御家中町在共、土蔵無残壁墜り、荷長根崎切
掛田割レ、谷地田沈ミ、外中痛と申ハ泥ヲかぶり、壱
トかふ宛起、田植より廿日余にて、草取之節ニ御座候
間、出作心元なし。
一川東、川内より向郷、地震弱、痛ミ多無是候。
一川西山ハにこり川家九軒の所七軒潰レ、人馬怪我無し。
一本庄御領大痛、矢嶋御米蔵裂、米千五百俵濡痛すかへ
表被仰付、御用所へ上納致候。
(佐藤嘉正家文書 四六)
 当時、正確な情報を知ることが困難であっただけに、
記述の内容に多少の相違はあるが、この時の地震の被害
がいかに甚大であり、大地の揺れ動く度ごとに右往左往
し恐れおののいた状態を推察できよう。震災予防調査報
告には文化元年の象潟地震と題して
文化元年六月四日夜半、鳥海山ノ西麓ヲ中心トセル大
地震アリ。北方由利郡ニ於ケル死者百八十三人、潰家
三十棟ニシテ、南方飽海、田川ノ荘内二郡ニ於ケル死
者百五十人、潰家三千五百余棟ニ及ベリ。今旧記ニヨ
リテ各郷村ニ於ケル震度ヲ比較スルニ、由利郡象潟ハ
最高位ニアリ。全戸数五百二十三戸ノ中、四百二十三
戸潰レ、六十五名ノ死者ヲ出セリ。加フルニ潟ノ内外
変シテ陸地トナリ、天下の名勝ヲ一夕ニシテ、其風光
ヲ損セリ。当時俗ニ之ヲ象潟地震ト呼ビタリシトゾ。
と書いてある。波静かだった象潟の湾内に点在する八十
八潟九十九島松島と並び称せられた景観も、一夜にして
陸地と変じてしまった。この時の大地震によって海底が
約一・四㍍程隆起したためであった。まさに[滄海|そうかい]変じて
[桑田|そうでん]になるの大異変であった。この時、矢島藩の幕府へ
の報告は
七月十八日(文化元年)
一御用番戸田采女正様へ御在所大地震ニ付、御届書左之

私領分羽州由理郡矢島、去月四日夜より同七日迄ニ地
震甚敷、家中并在町共破損所之覚。
一武器蔵大破 壱棟 一土蔵潰 弐棟 一収納米大
破 弐棟 本庄領分之内建置候 一同蔵潰 三棟
一家中土蔵大破 拾棟 一寺大破 壱ケ寺 一民
家潰 三拾六軒 一同土蔵大破 弐拾棟 一小屋
潰八 一馬 四匹
右之通御座候。陣屋別条無御座候。田地損毛之儀は取
調之上、追て[可申上候|もうしあぐべく]。怪我人等無御座候。此段御届
申上候。以上。
七月十八日 御名
右之通、今朝御届御差出被成候。 御使番
三森惣右衛門
 これは公式のものだけにその被害も正確なものであろ
うが、特に海岸ぞいの仁賀保領が多い。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺
ページ 203
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 秋田
市区町村 鳥海【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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