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項目 内容
ID J2600813
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1804/07/10
和暦 文化元年六月四日
綱文 文化元年六月四日(一八〇四・七・一〇)〔羽前・羽後〕
書名 〔続 矢島町史 上巻〕矢島町史編纂委員会・矢島町教育委員会編S58・12・28 矢島町発行
本文
[未校訂](江戸御在府日記抄)
七月十八日
一、御用番戸田采女正様へ、御在所大地震に付き御届
け、左の通り、
「私領分羽州由理郡矢島、去月四日夜より同七日
まで地震甚しく、家中並びに在・町ともに破損ケ
所の覚え。
武器蔵 大破一棟、土蔵[潰|つぶ]れ 二棟、収納米
蔵 大破二棟(本庄領分の内建て置く) 収納
米蔵 潰れ三棟、家中土蔵 潰れ十棟、寺
大破一ケ寺、寺土蔵 大破一棟、宮 大破二
社、町家 大破四十二棟、民家 潰れ三十六
軒、同土蔵 大破二十棟、小屋 潰れ八、[斃|へい]
死馬 四匹。
右の通りにござ候、陣屋別状ござなく候。田地損
毛の儀は取調べの上追って申し上ぐべく候。怪我
人等ござなく候。此の段御届け申し上げ候。以上
七月十八日 生駒監物
(注) 親章公の名は、寛政四年に大内蔵改め主殿とし、
其の後主殿改め監物となる。
七月 三日
一、権之助様より御奉札にて、左の通り(伊勢居地分
家知行所)
「然れば権之助様知行所出羽国仁賀保郷の内、当
六月四日夜より同七日まで地震甚しく、田畑・往
還の道裂け水押し泥水溢出し、潰れ家百三十六
軒・死亡人十二人・其のほか怪我人数多く、斃馬
二十七匹これ有り。田地裂け稲草泥にて埋り、御
高千石程の場所絶作御収納皆無にござ候。猶又御
損毛高等巨細の儀は、追って仰せ上ぐべき旨御支
配様へ御届書差し出し候様、御知らせこれあり候。
(注) 仁賀保郷の内伊勢居地家知行所は、伊勢居地・寺
田・畑・横岡の四ケ村である。
一、六郷佐渡守様より御奉札にて、左の通り、(前文
省略、被害状況列挙)
「大手冠木門、潰れ一、収納米蔵 潰れ三棟、町
役所 潰れ二、侍家 潰れ六軒、足軽及び在・町
潰れ千七百六十四軒、同 大破三百九十四軒、番
所 大破七ケ所、寺震埋れ一、鐘楼堂潰れ一、社
家潰れ四軒、宮 潰れ五社、社家 大破二軒、土
蔵 潰れ百六十二棟、同 大破九棟、象潟泥流に
て埋まる、湊 陸地となるも三ケ所、塩釜屋 潰
れ九ケ所、怪我人 百四十三人、死亡人 百六十
一人、怪我馬 五匹、斃馬 七十六匹。
(注) 仁賀保郷の大半は本庄領であったので、右のよう
に被害の程度が甚大であった。なお続いて岩城伊
予守様御届書の写しも記載されているが、北方海
岸に位置しているのではるかに軽微であった。
 今村明恒博士地震講話には、「潰滅家屋四千百
二十、死者数七十五人、津浪あり象潟の海変じて
平地となる」としるされているが、被害の内死者
の数は少計となっているようである。
一、酒井左衛門尉様御届書写し、左の通り、
御米置場 柵十五・六間・土居二十ばかり倒る
亀ケ崎城(酒田の支城)玄関・廊下・台所震
倒、多聞櫓痛み礎沈む、堀橋所所痛む、地面三・
尺ばかり長さ六・七間程裂け泥水溢出、土間百
間程沈む、大手堀土置場百八十間程の所岡と相
成る。
侍屋敷 潰れ二十棟、同長屋 潰れ八棟、町家
潰れ四百十三軒、同痛み家四百二十四軒、寺
潰れ二十七ケ寺、同痛み 十六ケ寺、衆徒潰れ
家 四十七軒、修験潰れ家 十七軒、民家潰れ
二千八百二十六軒、土蔵潰れ 百八十二ケ所、
同痛み 三百九十二ケ所、番所潰れ 十ケ所、
死亡人 百五十人、斃馬 百四十二匹。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺
ページ 202
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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