[未校訂]第二節 天和の大地震と街道途絶
一 大地震と五十里湖の出現
大地震の規模
天和三年(一六八三)九月一日未明、日
光・藤原・南会津地方に大地震があっ
た。マグニチュード六・八の震度であった(
『日本自然
災害年表』
)
というから、昭和二十四年の今市地震(六・四)とほぼ同
規模、あるいはそれをやや上回る規模のものであった。
かなりの大地震である。
五十里村の年貢割付状の分析結果によると、延宝八年
(一六八〇)には、高にして四四石余り(
本高の三分
の一以上
)
の不
作引があり、「延宝八年の凶作」を裏付けるような天候
異変があったことが推測される。さらにまた天和元年に
は、川欠と川押の引き高が七七石以上になる異常事態が
続いていたし、問題の天和三年の前年三年間は、平均し
て半高に近い不作引が続いていることから、よほどの異
常気象があったことが看取されるのである。
このような連続する異常気象に加えて、天和三年にな
ると五月に三度日光山を中心に大地震があった。うち二
度は、マグニチュード六・四と七・三(
共に『日本自
然災害年表』
)とい
われるもので、相当の激震であったのである。これらは
会津藩の正史である『会津藩家世実紀』巻之六十二にはも
ちろん、『日光御番所日記』・『社家中丸家日記写』・『旧
記』などにも記述がみられ、同月二十三日の大地震では、
御宮御堂(日光東照宮)石ノ御宝塔九輪、同慈眼大師御石塔
ノ九輪同時ニユリヲトシ大ニ損ス、
二十四日の大地震では、
御宮御堂御笠石大ニ損ス、諸大名献上ノ燈籠不残ユリタ
ヲス、
などと記されている(共に『旧記』)。
さらに追い打ちをかけたのが九月一日の大地震であっ
た。この地震は、五月の二つの地震よりさらに大きく、
日光・南山地方にとっては、前代未聞の大災害となった。
この地震で西川村地内の葛老山が、東側直下のV字谷を
流れる五十里川と、その沿岸につけられている会津西街
道に向かって崩れ落ちたのである。その土砂量は、どう
少なく見積っても一〇〇万㌧を下るまいといわれる。葛
老山の崩壊が、五十里川と会津西街道を遮へいした地点
は、日光神領・宇都宮藩領・会津藩預かり領の三方境に
近く、わずかに数百㍍会津藩預かり領にかかった、五十
里村の最南端に当たる地点である。現在の国道一二一号
線から湯西川への街道が分岐するちょうど海尻橋の地点
である。
崩壊の土砂量については、この地点の地形を目算して、
谷幅を一五〇㍍、谷の深さを五〇㍍、土砂の上流から下
流までの長さを八〇㍍として、一五〇×五〇×八〇で六
○万立方㍍、土砂と岩石の密度は異なるが、平均を一立
方㍍当たり二㌧として、六〇万立方㍍×二㌧で、およそ
一二〇万㌧と試算することもできる。ところで、男鹿川
の下流に当たるこの地点の川を五十里川と呼ぶのは古く
からの習わしであって、『会津藩家世実紀』巻之六十三
もこの呼び名を採用している。すなわち、横川の男鹿岳
に源を発する男鹿川は、会津西街道に沿って南流するが、
五十里宿の南約二㌔の地点で湯西川を合流させていく。
さらに南流すると川治温泉地点で鬼怒川を合わせて、以
南の川の呼称を鬼怒川にゆずっていくのである。この湯
西川を合流した地点から鬼怒川合流地点までの間を地元
五十里村では、五十里川と呼んできたのであった(図―
1参照)。
五十里湖の出現
公用道として軍事上や廻米輸送のため
に会津西街道を重要視してきた会津藩
にとって、街道途絶は大きな痛手であった。
ここでは『会津藩家世実紀』巻之六十三の記述を中心
に、それを必要に応じて補いながら、地震のようすや会
津藩の対応などを概略みていきたい。
この地震は日光東照宮の「漸々御普請出来候石垣を残
らず崩し、双輪塔も押し倒し」、「当五月之地震よりハ別
て強き」地震であった。流出の土砂量は「川なり四百拾
間程、高サ十弐、三丈計り、大石・大木夥敷落重り、(五
十里川の)流末を突留め、布坂山之麓山頂より高ク成」
るほどであった。「此山之厚サ百九十間、高サ水際より
弐拾五、六間も有可く、一坪を六人懸りとして、三拾六
万人程入候積」りのものであった。このため、当時の会
津藩蔵入役所[郡|こおり]奉行であった飯田兵左衛門は、早速現
地を視察して、災害規模やその後の対策を幕府勘定奉行
と会津藩当局に、早馬で注進したのである。飯田による
と、「当分は先ず上土を払い堀入川形り」にし、「其上で
底の様子知レ申す可く」このままにしておけば、中追之
者も渡世を失い、馬継ぎの村々も迷惑するのはもちろん、
今後湛え上がっていく水が「洪水等之節一度ニ押し切れ
候ハバ、関東筋之川所々押流何様之大難出来候事計り難
く、第一五十里村之本田捨り候ハバ大成憂ニ候(中略)何
様ニも水を払ふ日も早く水口を明ケ然る可く」というの
であった。これに対して会津藩では、執政の職に列する
首脳陣が評議をして、容易でない水抜工事よりは「中三
依より塩原湯本之上地蔵之曽根と申す場所へ懸り、高原
新田へ出候様ニ(中略)人足弐、三千ニて相済む可く」新
道を開くべきであるという意見もあった。だが結局飯田
の具申が採用されることになった。そして「先づ水口明
ケ候て、実ニ成就之程覚束無き様子ニ候ハバ新道仰付ら
る可きかと決定之上、公儀へ相窺候処、水口を堀抜候方
ニ御差図これ有り、仍て此後年々御普請不断仰付られ候」
表―1 天和3年大地震が形成した五十里湖の規模
上流への
湖水の長さ
川筋
長さ(㎞)
備考
五十里村方面へ
約5.1
「湖水抜後覚書」では約5.7㎞西川村方面へ
〃4.0
―湖水の幅員
及び深度
川筋
測量地点
湖水幅(m)
湖水深度(m)
図―1表示
五十里村方面へ
掘割前
約900
約47
a
五十里宿
〃380
〃32
b
仏の岩
〃330
〃18
c
石木戸
〃220
〃6
d
最小幅
〃67
―
―
五十里村水没期間
約90日で水没する
独鈷沢村
中井地点水没期間
約153日で水没する
湖水の排水口
築留地点で排水の掘割工事 大滝3か所で排水していた
史料は、正徳3年「覚」及び享保8年「陸奥国会津領御蔵入野州塩谷郡五十里村湖水抜後覚書」
というのであった。
いずれにしても、崩れ落ちた土砂塊があたかもダムの
形状をなしてその上流の五十里川・男鹿川と湯西川に出
来た溜水は、ここに天然の大五十里湖を形成することに
なったのである。そのため、五十里村と西川村はやがて
水没していくが、この大五十里湖が完成するまでに約五
か月の時日を要している。五十里湖が出来ていく様子に
ついては、年代をやや下るものであるが、五十里村に残
される史料によってこれをみていくことができる。
まず、五十里湖形成にふれた主な文書を挙げてみると、
・湖水水抜工事につき五十里村誓約書控・他(宝永四
年―一七〇七―会津藩が、江戸商人に依頼して行っ
た水抜工事の場所に関して五十里村が差出した誓約
書、資料編第二編第五章三~六)
・「中川吉左衛門様始てノ御下御尋ニ付書付上ルひか
へ覚」(正徳三年―一七一三―南山蔵入地方が第二
回めの幕府直支配下におかれた機会に代官中川吉左
衛門の巡回に際して、五十里村名主が書上げ差出し
た湖水が出来た後の経過覚、資料編第二編第五章七)
・「陸奥国会津領御蔵入野州塩谷郡五十里村湖水抜後
覚書」(享保八年―一七二三―第三回預かり支配期
間中、五十里湖が自然決壊した時、郡奉行臼木覚左
衛門が行った幕府勘定奉行への報告書写、資料編第
二編第五章一〇)
である。これらの記録は、いずれもおよそ二〇年後、三
○年後、四〇年後に必要上書かれたものであるが、内容
はほぼ正確であると考えられる。これらの記録を総合し
て、五十里湖の規模とそれが形成された過程を図表化し
てみた(図―1・表―1)。
(注、以下洪水の記事省略)