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項目 内容
ID J2600198
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1683/10/20
和暦 天和三年九月一日
綱文 天和三年九月一日(一六八三・一〇・二〇)〔日光〕
書名 〔藤原町史 通史編〕藤原町史編さん委員会S58・3・31 藤原町
本文
[未校訂]第二節 天和の大地震と街道途絶
一 大地震と五十里湖の出現
大地震の規模
天和三年(一六八三)九月一日未明、日
光・藤原・南会津地方に大地震があっ
た。マグニチュード六・八の震度であった(
『日本自然
災害年表』

というから、昭和二十四年の今市地震(六・四)とほぼ同
規模、あるいはそれをやや上回る規模のものであった。
かなりの大地震である。
 五十里村の年貢割付状の分析結果によると、延宝八年
(一六八〇)には、高にして四四石余り(
本高の三分
の一以上

の不
作引があり、「延宝八年の凶作」を裏付けるような天候
異変があったことが推測される。さらにまた天和元年に
は、川欠と川押の引き高が七七石以上になる異常事態が
続いていたし、問題の天和三年の前年三年間は、平均し
て半高に近い不作引が続いていることから、よほどの異
常気象があったことが看取されるのである。
 このような連続する異常気象に加えて、天和三年にな
ると五月に三度日光山を中心に大地震があった。うち二
度は、マグニチュード六・四と七・三(
共に『日本自
然災害年表』
)とい
われるもので、相当の激震であったのである。これらは
会津藩の正史である『会津藩家世実紀』巻之六十二にはも
ちろん、『日光御番所日記』・『社家中丸家日記写』・『旧
記』などにも記述がみられ、同月二十三日の大地震では、
 御宮御堂(日光東照宮)石ノ御宝塔九輪、同慈眼大師御石塔
ノ九輪同時ニユリヲトシ大ニ損ス、
 二十四日の大地震では、
 御宮御堂御笠石大ニ損ス、諸大名献上ノ燈籠不残ユリタ
ヲス、
などと記されている(共に『旧記』)。
 さらに追い打ちをかけたのが九月一日の大地震であっ
た。この地震は、五月の二つの地震よりさらに大きく、
日光・南山地方にとっては、前代未聞の大災害となった。
この地震で西川村地内の葛老山が、東側直下のV字谷を
流れる五十里川と、その沿岸につけられている会津西街
道に向かって崩れ落ちたのである。その土砂量は、どう
少なく見積っても一〇〇万㌧を下るまいといわれる。葛
老山の崩壊が、五十里川と会津西街道を遮へいした地点
は、日光神領・宇都宮藩領・会津藩預かり領の三方境に
近く、わずかに数百㍍会津藩預かり領にかかった、五十
里村の最南端に当たる地点である。現在の国道一二一号
線から湯西川への街道が分岐するちょうど海尻橋の地点
である。
 崩壊の土砂量については、この地点の地形を目算して、
谷幅を一五〇㍍、谷の深さを五〇㍍、土砂の上流から下
流までの長さを八〇㍍として、一五〇×五〇×八〇で六
○万立方㍍、土砂と岩石の密度は異なるが、平均を一立
方㍍当たり二㌧として、六〇万立方㍍×二㌧で、およそ
一二〇万㌧と試算することもできる。ところで、男鹿川
の下流に当たるこの地点の川を五十里川と呼ぶのは古く
からの習わしであって、『会津藩家世実紀』巻之六十三
もこの呼び名を採用している。すなわち、横川の男鹿岳
に源を発する男鹿川は、会津西街道に沿って南流するが、
五十里宿の南約二㌔の地点で湯西川を合流させていく。
さらに南流すると川治温泉地点で鬼怒川を合わせて、以
南の川の呼称を鬼怒川にゆずっていくのである。この湯
西川を合流した地点から鬼怒川合流地点までの間を地元
五十里村では、五十里川と呼んできたのであった(図―
1参照)。
五十里湖の出現
公用道として軍事上や廻米輸送のため
に会津西街道を重要視してきた会津藩
にとって、街道途絶は大きな痛手であった。
 ここでは『会津藩家世実紀』巻之六十三の記述を中心
に、それを必要に応じて補いながら、地震のようすや会
津藩の対応などを概略みていきたい。
 この地震は日光東照宮の「漸々御普請出来候石垣を残
らず崩し、双輪塔も押し倒し」、「当五月之地震よりハ別
て強き」地震であった。流出の土砂量は「川なり四百拾
間程、高サ十弐、三丈計り、大石・大木夥敷落重り、(五
十里川の)流末を突留め、布坂山之麓山頂より高ク成」
るほどであった。「此山之厚サ百九十間、高サ水際より
弐拾五、六間も有可く、一坪を六人懸りとして、三拾六
万人程入候積」りのものであった。このため、当時の会
津藩蔵入役所[郡|こおり]奉行であった飯田兵左衛門は、早速現
地を視察して、災害規模やその後の対策を幕府勘定奉行
と会津藩当局に、早馬で注進したのである。飯田による
と、「当分は先ず上土を払い堀入川形り」にし、「其上で
底の様子知レ申す可く」このままにしておけば、中追之
者も渡世を失い、馬継ぎの村々も迷惑するのはもちろん、
今後湛え上がっていく水が「洪水等之節一度ニ押し切れ
候ハバ、関東筋之川所々押流何様之大難出来候事計り難
く、第一五十里村之本田捨り候ハバ大成憂ニ候(中略)何
様ニも水を払ふ日も早く水口を明ケ然る可く」というの
であった。これに対して会津藩では、執政の職に列する
首脳陣が評議をして、容易でない水抜工事よりは「中三
依より塩原湯本之上地蔵之曽根と申す場所へ懸り、高原
新田へ出候様ニ(中略)人足弐、三千ニて相済む可く」新
道を開くべきであるという意見もあった。だが結局飯田
の具申が採用されることになった。そして「先づ水口明
ケ候て、実ニ成就之程覚束無き様子ニ候ハバ新道仰付ら
る可きかと決定之上、公儀へ相窺候処、水口を堀抜候方
ニ御差図これ有り、仍て此後年々御普請不断仰付られ候」
表―1 天和3年大地震が形成した五十里湖の規模
上流への
湖水の長さ
川筋
長さ(㎞)
備考
五十里村方面へ
約5.1
「湖水抜後覚書」では約5.7㎞西川村方面へ
〃4.0
―湖水の幅員
及び深度
川筋
測量地点
湖水幅(m)
湖水深度(m)
図―1表示
五十里村方面へ
掘割前
約900
約47
a
五十里宿
〃380
〃32
b
仏の岩
〃330
〃18
c
石木戸
〃220
〃6
d
最小幅
〃67


五十里村水没期間
約90日で水没する
独鈷沢村
中井地点水没期間
約153日で水没する
湖水の排水口
築留地点で排水の掘割工事 大滝3か所で排水していた
史料は、正徳3年「覚」及び享保8年「陸奥国会津領御蔵入野州塩谷郡五十里村湖水抜後覚書」
というのであった。
 いずれにしても、崩れ落ちた土砂塊があたかもダムの
形状をなしてその上流の五十里川・男鹿川と湯西川に出
来た溜水は、ここに天然の大五十里湖を形成することに
なったのである。そのため、五十里村と西川村はやがて
水没していくが、この大五十里湖が完成するまでに約五
か月の時日を要している。五十里湖が出来ていく様子に
ついては、年代をやや下るものであるが、五十里村に残
される史料によってこれをみていくことができる。
 まず、五十里湖形成にふれた主な文書を挙げてみると、
・湖水水抜工事につき五十里村誓約書控・他(宝永四
年―一七〇七―会津藩が、江戸商人に依頼して行っ
た水抜工事の場所に関して五十里村が差出した誓約
書、資料編第二編第五章三~六)
・「中川吉左衛門様始てノ御下御尋ニ付書付上ルひか
へ覚」(正徳三年―一七一三―南山蔵入地方が第二
回めの幕府直支配下におかれた機会に代官中川吉左
衛門の巡回に際して、五十里村名主が書上げ差出し
た湖水が出来た後の経過覚、資料編第二編第五章七)
・「陸奥国会津領御蔵入野州塩谷郡五十里村湖水抜後
覚書」(享保八年―一七二三―第三回預かり支配期
間中、五十里湖が自然決壊した時、郡奉行臼木覚左
衛門が行った幕府勘定奉行への報告書写、資料編第
二編第五章一〇)
である。これらの記録は、いずれもおよそ二〇年後、三
○年後、四〇年後に必要上書かれたものであるが、内容
はほぼ正確であると考えられる。これらの記録を総合し
て、五十里湖の規模とそれが形成された過程を図表化し
てみた(図―1・表―1)。
(注、以下洪水の記事省略)
出典 日本の歴史地震史料 拾遺
ページ 69
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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