[未校訂]第三章 湯本村元湯温泉の歴史と変遷
(1) 元湯に残る万治年代(万治二年二月晦日地震(一、六
五九)
温泉神社の遺跡
湯泉寺、円谷寺の遺跡
解明
一、元湯の歴史は古く、温泉神社の創建は大同元年(八〇
六年…今から一、一七三年前)である。
万治二年二月晦日(一、六五九)の地震により、潰滅
の為、八十五軒の家々は或いは絶滅、潰れ残った家々
も、古高原、新湯、上塩原、下塩原、大田原、真岡な
どに転住して、八百年乃至千年に及んだ元湯繁昌は夢
の如く消え去ったのである。
二、元湯の古地図
1、其の原本と思われるものが、元湯から新湯に移り
「井桁屋」を称し、後に上塩原宮島、大塚喜一家に
伝わるものがある。
年代は記してない。
2、新湯 亀屋に書き残されたもの
この写しが現在元泉館に書き残されてある。
年代は記してない。
3、元、古高原に書き残されたもの
(
元高原より高松七
四郎氏所持のもの
)
この写しが現在、大出館に残されてある。これは、
同家の奥様の生家(今市市)に伝えられたものである
と云う。(今市市小倉町現大出藤一郎氏家)
年代は記してない。
以上1、2、3に書き残されてあるものは、其の記載
の内容が殆んど一致している。此の故に、万治地震によ
って潰滅した元の姿を偲んで時の、庄屋格の者(井桁屋 大塚氏)が書き、
それぞれ、新湯、高原…等に伝え残したものと思われる。
万治二年(一、六五九)地震の後も、残った者で復興に
当り、又宇都宮藩にても黒田左衛門をして復興に当らせ、
黒田氏は神社に手洗石寄進寛文九年(一、六六九)の銘の
石が大出館裏に現存している。
又、寛文十一年(一、六七一年)には家臣荻野与兵衛に
河辺の石垣を修造させている。
温泉神社の新湯への移遷は、正徳三年(一、七一三)で
あり、河辺の石垣、洪水によって崩れたのが享保八年(一、
七二三)である。
此のことより、最後迄、元湯に居残った者も此の享保
八年(一、七二三)の洪水によって総てをあきらめて移転
したと思われる。地震後六十四年にして全くの無住に帰
したと思われる。
古絵図面は享保八年(一、七二三)頃の作図と思われる。
今から二五六年前に当る。
三、元湯温泉神社の遺跡
大出館裏高台にあり。
1、石段(数段あり、又壇の縁長石二本あり。鳥居の
笠石(か)造り方 東照宮のものに似ている。
2、湯泉寺 遺跡
湯泉寺は温泉神社の別当寺であった。室町時代に
京都醍醐寺未の修験寺(山伏寺)であり、神社の別当
を兼ねていた。
湯泉寺は大さ 三間四面(或いは四間四面)後に高
原に移る。延宝三年(一、六七五年)のことなり。
社僧の住家 別当家敷十二坪となっている(承応
三年(一、六五四)の検地帳)に記録がある。
又、此の時の石垣現存している。寺を称する以前
に修験の行屋であったと思われる。
3、温泉神社の手洗盤石
寛文九年(一、六六九)黒田左衛門宇都宮藩寄進
4、石の擬宝珠(石)―元湯泉寺の屋根にあったもの(現
存)
四、円谷寺の遺跡
円谷寺(
創建寛正四年一、四六三―今から五一六年前芳賀
七井村大沢、円通寺の末寺なり。敷地三十坪。
現在、ゑびすや旅館の脇
(
地震後貞享元年(一、六八四)新湯に移
る。
明治維新廃寺となる。本尊と思われる
もの新湯君島昇家に現存す。
古碑 銘
為根誉善□信男菩提也
逆修為覚誉妙本信女菩提也
万治二年五月十五日
万治二年二月晦日に死亡し
た。夫の菩提と併せて、其の
妻が生前覚誉妙本信女の称名
を寺よりもらって碑を建てた
ものと思われる。
逆修(生前に供養すること)
其の他
円谷寺の住僧の墓石です。
※円谷寺の墓石は多くは
新湯、高原、上塩原堂の本(十王堂の谷)に移した
(現存す)
※湯泉寺は修験寺で墓はなかった。
五、其の他
出土、今後、土木事業等の時に出ると思われる。
御留意願い度いと思います。
(4) 古湯本から新湯への変遷について
(イ)
(古[石幢|せきどう])新湯温泉神社石造六角灯篭(元古湯本温
泉神社より移転したもの 昭和三十三年八月二十九
日 栃木県文化財指定)
総高 五尺五寸五分(1m68㎝)
石数 九(芝台共)
石質 複輝石安山岩 えんじ色
(註)
(1)造立 永正十五年四月
吉日
(2)碑文為一切聖
霊亡願主昌泉
永正十五
四月
吉日敬白
(3)石質複輝石安山岩
色 えんじ色
(4)永正十五年(一、五一
八)
第百四代後柏原天皇の
代室町末期
(附記)
一、新湯温泉神社 主祭神(大己貴命、少彦名命)
例祭(九月十七日)
境内神社
(
八坂神社(素盞鳴命)
稲荷神社(稲倉魂命)
(1) 創建は大同元年(八〇六年)元湯(古湯本)に創建。万
治二年(一、六五九年)の地震により元湯潰滅の為、八
十五軒の家々は或いは絶滅、潰れ、残った家々は次の
ようである。
(イ)
・古高原に移ったもの 六戸寛文五年(一、六六
五年)又塩湯山湯泉寺も高原へ延宝三年(一、六七五
年)に移る
(ロ)
・新湯に移ったもの 九戸天和二年(一、六七二
年)又、湯本山円谷寺、新湯に移遷 貞享元年(一、
六八四年)
温泉神社の移遷(元湯より新湯へ)正徳三年(一、七
一二年)
(
※万治二年地震後、復興と神威の加護と願って寛文九
年(一、六六九年)銘手洗盤石、黒田左衛門佐寄進。
※此の手洗盤石、元湯に現存す。
◉此の時に温泉神社石幢も元湯より移遷し、現在に
至っている。
◉現在の新湯温泉神社の奉還の祝いを行った年、享
保十年(一、七二五年)と思われる。
社前の石灯篭二基銘(享保十年)手洗盤石(享保十年)
と銘あり
(ハ)
其の他の住民移住先
上塩原、古町、門前、畑下、塩釜……遠くは大田
原、真岡へ
※元湯の古絵図残っている。
(2)古湯本の大勢
(
高 百十五石五斗八合五勺 寛永年中
(元年(一、六二四))家数八十五軒、寺
二ケ所、勤番所共、湯屋八ケ所
(ロ)
古湯本について
古文書に記された資料
(1)藤原道綱の湯料寄進のこと
塩谷庄内上塩原村湯本等之事
右彼所者 依為武家相伝之地所令知行也 然間令
停止諸公事 所為湯料所奉寄附 興禅寺 訖永不
可有違失之儀 仍寄進之状 如件
応永九年七月一日 藤原 満綱 花押
(註)応永九年(一、四〇二)
湯本の湯銭(入湯料)を、宇都宮十二代城主満綱
より菩提寺の興禅寺(宇都宮市今泉町)に寄進をし
たもの。満綱は信心強かった。※興禅寺(八代城主貞綱
の創建、正和三年(一、三一四年)御朱印高三十七石)
(2) 伯耆守孝綱の寄進のこと
興禅寺
興禅寺風呂破滅 寔嘆敷存候、然者塩谷庄内湯本
塩原之土貢 任御先祖御伴形為温造奉寄進所也
仍而執達 如件
永正九壬申年三月九日 伯耆守 孝 綱 花押
(註)永正九年(一、五一二)
興禅寺浴舎寄進のため、塩谷、川崎城主より湯
本塩原の土貢を寄進した書状。孝綱は宇都宮十六
代城主正綱の四男、入りて塩谷家の重興の祖とな
る。
(3) 塩湯山湯泉寺(元湯―高原に移り―文(一、八六三)久三年以
後住民移動により廃寺となる)
真言宗、醍醐の直末、医法院法昌宮より賜わる。
温泉大権現の別当(修験道)(開創建未詳)*(一、
一〇〇年代の開創?)
室町期(一、四〇〇~)、醍醐寺直末となり、法親
宮会津へ下向の砌、此所にて医王院号を賜わり、
其の時に永正十五年の石幢建立されたと思われ
る。
(4) 湯本山円谷寺(元湯―新湯に移り―戊辰戦争に
より焼失、廃寺となる。)
浄土宗、芳賀七井大沢円通寺の末寺。本尊は元、
芳賀郡七井、[小宅|オヤケ]村、稱念寺多田満仲の持佛なり。
円谷寺開山…寛正四末年(一、四六三年)栖蓮社良
然上人(此の開山、明応九年六月二日入寂(一、五
〇〇)碑―新湯に現存
※(浄土宗名越派檀 円通寺 開山良栄上人、応永年中創建(一、
四〇〇年)頃)
(附記)
古湯本にあった、寺関係の石塔、墓碑等、運搬
可能のものは、新湯墓地に移遷して再復されて、
現在に残っている。
(ハ) 古湯本の御縄帳について
(1) 承応三甲午三月十五日(一、六五三年)
「下野国塩谷郡宇都宮領 湯本塩原村御縄帳」
(註) 案内者 善右衛門
長右衛門
伝右衛門
作左衛門
(例)
杢之助
八郎屋敷 下畑(
十間
四十三間
壱反四畝九歩 源兵衛
〃 下下畑(
九間
二十四間
七畝六歩 小左衛門
〃 下畑(
十五間
九間
四畝拾五歩 又右衛門
他
※附記(現在の八郎原牧草地のところ)
・保元元年(一、一五六)塩原八郎家忠、塩原、美余利、横
川を領し「八郎原」に館を築く…とあるは、此の所を云う。
(同所計六十四ケ所)
とのはたけ 上畑(
九間
拾九間壱尺
五畝廿壱歩 藤右衛門
〃 下下畑(
拾五間
拾四間
七畝歩 長右衛門
〃 下下畑(
拾間
三間
壱畝歩 同人
※現在(元湯前山大穴の手前の所)
他
(以下同所計三十ケ所)
おりて 中屋敷(
七間弐尺
拾四間
三畝拾弐歩 長右衛門
〃 上屋敷(
三間壱尺
拾弐間
壱畝九歩 治郎兵衛
〃 上屋敷(
三十弐間
拾弐尺
壱畝九歩 与惣右衛門
※現在(元湯温泉のある所)
他
(以下同所計六十四ケ所)
壱反に付六斗代 上畑〆五町三反壱畝拾弐歩
〃 四斗代 中畑〆四町八反四畝拾五歩
〃 壱斗五升代 下畑〆拾町壱反廿七歩
壱反に付壱斗代 下下畑〆七町四反五畝拾八歩
〃 四石代 上屋敷〆五反四畝拾弐歩
〃 三石五斗代 中屋敷〆壱反拾八歩
〃 壱石五斗代 下屋敷〆弐反七畝弐拾壱歩
◎(※温泉場の故高多し)元湯には勤番所が置かれ本陣もあり、湯治
客の多い宇都宮藩唯一の療養所であった。殿様の入湯もあった所
である。
畑合 三拾五町七反弐畝拾弐歩
分米 八拾五石八斗八升三合五夕
屋敷合 九反弐畝弐拾壱歩
分米 弐拾九石六斗弐升五合
畑、屋敷、都合三拾六町六反五畝三歩
高 百拾五石五斗八合五夕
承応三甲午年 三月五日 木村 彦左衛門
岡本 半左衛門
京野 惣兵衛
(本書 墨付六十三枚上紙共)
(2) 寛文十一亥年(一、六七一)十月十五日
「下野国塩谷郡宇都宮領湯本村新田御縄帳」
地引 平左衛門
伝左衛門
源左衛門
加兵衛
(註)
此の縄帳は万治二年(一、六五九)元湯地震後、既に温
泉場は潰滅に近く住民の一部は、寛文五年(一、六六五)
高原に移住した後の検地御縄帳である。それでも新畑を
開発して、残された半数の住民が努力を続けていたので
ある。
(例)
八郎 下下畑(
三十四間
五間
五畝弐拾壱歩 平右衛門
〃 下下畑(
廿三間
拾弐間
九畝六歩 市左衛門
〃 下下畑(
六間
八間
壱畝拾八歩 五郎兵衛
以下 下下畑のみ
合計 百八十三筆 〆 九町四反八歩
壱反に付 壱斗代
下下畑 合 九町四反八歩
分米 合 九石四斗八升
寛文拾壱
辛
亥
年十月十五日
駒田 小左衛門
(本書 判付・弐拾四枚上紙共)
(註)
これに記された通り、「屋敷」の畝歩は消失してある。
残ったものは下下畑のみとなっている。
(3) 正徳四年(一、七一四)湯本村免定のこと(新湯に移
ってからの定免)
(4) 文化十三年(一、八一六)宇都宮藩、湯本村為地起
発のこと
四、其の後の推移
万治二年元湯地震以後の新湯開発への移動
天和二年(一、六八二)新湯に移った九人が、温泉旅
篭宿の形成に取組んだ訳であるが、其の基本となった
ものは、元の「元湯街」の再現にあったと思われる。
移動可能なものは、湯泉大権現神社をはじめ移遷再興
し、円谷寺再建、古碑塔類の多くを運び来って再現に
(新湯温泉神社古石幢はじめ数多)努め、新温泉宿とし
て元湯に替って繁昌することになるのである。
此の移動によって、元湯温泉は全く姿を消し、無住
の地と化したのである。
次に、寛政十年(一、七九一)宇都宮四十二代城主戸
田[忠翰|ただなか]の入湯(新湯に湯治)の際の、付人の村の観察記
録がある。
湯本 塩原村
村 高 一三七石九斗壱町七合五夕
※此の内 荒所高 一三一石二斗四合五夕
残り高 六石七斗一升三合
国役金 取立可能なり
塩原は九分五厘余の荒廃し此れ等の農村には他に見
るべき職業もなく、一に耕耘の収穫を待つあるに此の
惨状なり。
五、付記
現在の元湯温泉
旅館業 三軒(明治十七年一軒、大正の初め一軒、
昭和一軒)それぞれ新設されたものである。
往時を偲ぶには、或いは古道を尋ね、山辺に散在す
る古碑等を探るのみ……。
湯本温泉には宇都宮城主の中、八代に渉る城主が
屢々入湯されている。