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項目 内容
ID J2600023
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1586/01/16
和暦 天正十三年十一月二十七日
綱文 天正十三年十一月二十九日(一五八六・一・一六)〔畿内・東海・東山・北陸の諸道・諸国〕
書名 〔薬師寺〕福山敏男・久野健著S33・11・29 東京大学出版会
本文
[未校訂](注、講堂三尊に関する記述)
2 昭和に入ってから今日までの研究
 講堂三尊に関する研究は、昭和に入るや、また新たな
展開を見せた。昭和二年に橋本凝胤氏により「郡山城趾
と薬師寺講堂三尊」という論文が発表され、この講堂三
尊は、梨原寺或いは植槻寺の像であろうとする田村吉永
氏の談話を紹介し、その寺の礎石は、郡山城築城の際に
運ばれ石垣等に使われた史料もあり、また今日の郡山城
を見ても、白鳳とおぼしき礎石が使われていることを図
によって伝え、この説がかなり正しいものであることを
のべている。その翌年には、田村吉永氏自身、現代仏教
に「薬師寺講堂の薬師三尊に就いて」という論文を発表
し、この説を強調している。
 また、昭和六年には、板橋倫行氏が「薬師寺講堂三尊
の原所在について」と題して、前記の説の根拠になって
いる植槻道場縁起を詳しく紹介し、講堂三尊についての
従来の諸説をのべ、さらに一歩を進めている。すなわち、
講堂三尊を関野氏が薬師寺講堂←西院堂←八条村一宇←
本薬師寺としているのに対し、喜田貞吉氏は薬師寺講堂
←西院堂←八条村一宇=弘文院としたが、植槻道場縁起
には、
 応永の比九条の巷に井司三郎といふ人あり、ゆへ有
て山をほりけるに其薬師の像をえたり、丈六の霊像を
俗家に安置すべきよしなしとて薬師寺に寄附せりと、
西院の本尊是なり、
 とある。これから考えると、薬師寺講堂←西院堂←八
条村一宇←植槻道場というふうにわかってきた。この植
槻道場は、和銅二年にはここで維摩会が修されている点
から考えても、和銅以前の創立であることも付加えてい
る。さらに、氏は、植槻寺から薬師寺に三尊が移った年
代を永正十年ごろとされているが、これに対し、田村吉
永氏は、同年「薬師寺講堂の三尊に就いて」を発表して、
その説に反対した。氏の説くところは、多聞院日記天正
十四年十一月二日の条に、
 一、西京薬師堂ニ大ナルカナ仏ノ掘出タルヲ、順慶
之時入テ放置タルヲ、大地震ニコロビテ頸ヌケタルヲ
盗テ堺ヘ売ニ出タルヲ令才学取返両人召取、一人ハ大
将ナレバタ物ニ、上一人ハクビヲ切テカウニカケテア
リ、
 とある。その大地震は、天正十三年(一五八五)十一月
以後翌年三月までのものであり、現在三尊中の日光菩薩
の首は江戸時代のものになっているから、ますますこの
記事の正しいことがわかる。また、順慶の出生は、天文
十八年(一五四九)であるから、三尊を薬師寺に移したの
は、それ以後のことであるのは勿論である。そして、植
槻寺址と推定される場所がほとんど郡山城地にあり、順
慶の郡山城築城は天正八年から天正十一年四月までの間
である点等から、三尊の移入の年代も天正八年以後十一
年四月の間であろうとのべている。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺
ページ 13
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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