[未校訂]○ 朝倉港は、遠浅である欠陥はあったが、東風や、西
風を防止する自然の良港であって干潮時を除けば舟舶
の出入は便利であったので、近畿と九州を結ぶ航路の
中間碇泊地として、盛んに利用され、港としての施設
も整い、また、越智郡内の文化の中心地として、寺社、
條里制など、最も早く設けられ、寺という呼び名のも
とに宿泊地もあり、越智国造家の越智郡司として、居
館をこの朝倉郷に定めていた(のち、小千守興のころ
は、高市郷古谷に朝倉郷の行司原から移築)
○ 遠浅であるが、風波を受けない、朝倉港も、天武天
皇の御代に起こった、たびたびの、大旱抜・大洪水に
よって、屯田川本流はじめ各支流は水が涸れて、作物
が皆無であったり、水が溢れて氾濫したり、山津波に
よる土砂の流出によって、河川は流れを変へ、田畑は
流失し、その運ぶ土砂は下流の方に堆積して、「オチ」
=「耕作地の細く、少ない所」という郡名は、朝倉港
をはじめとして、屯田川・総社川・浅川などから押し
出してくる土砂によって、遠浅であった海は、陸地に
替り、府中平野が出現したのである。
ここに鴨部郷・朝倉郷を唯一の耕作地として、そこ
に居住地を構えていた、氏族たちは旱抜に見まわれた
り、洪水のため流失したりした故郷の山間の田畑を捨
て、新らしく出現した、広々とした、耕作しやすい、
新天地の府中平野の方に移住する傾向を示すに至るの
である。
○ この府中平野=桜井・冨田・清水・立花の地区に出
来た沖積平野に移住する傾向を、決定づけたものは、
天武天皇十三年、白凰十三年十月十四日 午後十時に
渤発した全国的な大地震であったのである。
① 朝倉港は、陸化して港湾としての役目を失い、九
州―近畿間の瀬戸内海航路の唯一の碇泊港の価値は
全然なくなって、新しい府中平野の出現によって、
九州―近畿間の碇泊港は、朝倉港から、越智郡桜井
郷の桜井港の港湾にとって代わった。
それで、中国・朝鮮からの九州・近畿に伝達する
先進文化は、朝倉郷へは入らなくなり、伊予文化の
中心地としての朝倉は、その機能を桜井郷へゆずら
ざるを得なくなったのである。
② 朝倉郷屯田より収納する稲束をしまっておく、木
の丸殿は、大旱抜・大洪水によって、収納物は、殆
んど皆無に近いばかりか、「全国各郷にある官舎は
つぶれ」て、朝倉郷行司原の木の丸殿は、この大地
震のため、倒壊してしまったのである。それで、ず
っと後世(室町時代)になって、平木の窪の方に再
建しているが、このことは後ほど述べる。
③ この大地震によって、朝倉港の近くにあった、浄
禄寺・歓喜寺は倒壊または流失し、一つは廃寺とな
り、一つは流失して、流れ着いた町谷に再建され、
唯ホノギに、僅かに、過去の寺塔のあとを残すのみ
となっている。
殊に、この廃寺となった、浄禄寺の本尊である、
生木の薬師も大地震のために枯死してしまい、住職
であった、輝月妙鏡律尼も同年遷化している。
現在は、浄禄寺のあったという所の、東端の田の
中に、僅かに盛土をして、木の生い茂った、樹之本
古墳が、小千守興か、小千玉興かの墳墓として、多
くの出土物を、東京博物館の方へ送ってしまい、墳
上に、釈迦三尊の石彫と、輝月妙鏡律尼の墓標を残
している。
④ この大地震の後、越智郡司、伊予大領である、小
千玉興は、多分、古谷にあったと思われる、その居
館が倒壊したため、これを捨て、当時、文化の中心
となった桜井郷に近く、しかも国府に近接する、拝
志郷上神宮に居館を新築して、そこに転居したので
ある。
ここにも朝倉が、伊予の中心的な地位を、桜井郷乃
至府中平野の方にゆずるようになるのである。
また、少し後であるが、六六一年の日本軍の朝鮮半
島派遣軍の一方の将として西征した、小千守興(小千
玉興の父)は六六三年白村江の大敗戦後、外国に滞在
すること三九年にして、七〇二年ようやく脱出して帰
郷してみると、大地震のため、古谷の居館はくずれ、
氏族は分散し、田畑は流失してしまっているので、子
玉興の家に寄遇していたが、新屋郷に新しく土居を構
築して、その新しい屋形にうつって、観音信仰の余生
をここに送っている。
ここ、新屋郷土居の三島神社の鳥居横少し入った所
に、「小千守興之墓」がある。
佐礼山仙遊寺のすぐ近くである。
○ 朝倉郷に栄えた、伊予国の中心的なあらゆる文化は、
この白凰十三年の大地震によって、全滅してしまい、
伊予の国の国府のある、府中平野にその地方豪族小千
氏族が移住してしまい、文化を採り入れる港湾も、桜
井郷に転移して、その後奈良時代・平安時代は、朝倉
のさしも栄えたあらゆる地位を失って、しばらくの間
は、全く朝倉の欠史時代に入ってしまうのである。
○ しかし残存する神社・寺院に奉仕信仰する戸民の
営々とした復旧の努力によって、再び朝倉史の花を咲
かす時の来るのを期待しながら、細々と生存の息吹を
つづけるのである。
四 朝倉郷から府中平野へ (六八五→)
天武天皇十三年以後の伊予の国
六八五年、天武天皇十三年に起きた、
大地震は、伊予の国のあらゆる中心地
であり、先進地としての朝倉郷を、決定的に壊滅してし
まった。
その故に、朝倉郷の大地震以後の記録は、前に述べた、
伊予の国の大領、越智郡の郡司であった、小千守興、玉
興父子の朝倉郷から府中平野への転出、朝倉港の近くで、
いろいろな文化的な役割をしていた、生木の薬師を本尊
とする、浄録寺の滅失、歓喜寺の流失などのほかに、ほ
とんど記録はない。
しかし、伊予の国に関しての記録は、中央の正史に記
述されており、朝倉郷も、その伊予の国の中心的な地位
を、大地震(六八五)まで、保持していたのであるから、
当然、その記録の中に含まれるし、また、出土物からも、
朝倉郷の様態が推測し得ると思われるのである。