[未校訂]江戸大地震
安政という年は幕府でも諸藩でも有志の者等が内憂外患
に即応の臨戦態勢を取るため、多年にわたる財政難にもか
かわらず、農政改革など藩制の中枢部を強化、国産物流通
の統制、軍事改革の励行などを行なった年である。然るに
他方では体制の朽廃作用が進んで復旧不可能と見捨てられ
るような状態となるものもあった。水戸では「改革風が吹
き分けて」と言えるだろうか。「悪い時には悪い事が重なっ
て来るもンだ」と村の古老は嘆いたことだろう。安政元年
二年の頃に入って以来、水戸は毎月地震を感じない日が甚
だ少ないのである。例えば、○安政元年十二月十五日、○
同二年一月二十一日(強震)、○安政二年二月十三日、○
同二年二月十七日、○同二年三月九日、○同二年六月十日
(強震)○同二年七月三日、○同二年十月二日(強震)、こ
の十月二日の夜の強震こそ江戸の大地震そのものである。
そして第一表によって分かる通り、この時から十三日間も
続き、その後も少しずつ切れては又長々と続いている。水
戸と地震とは余程親近の関係なのか。現代の水戸と比べて
どのような差違が見られるか、興味深い問題である。(中略)
ところが江戸から水戸では、すぐに情報が行き届かない。
小宮山昌玄(南梁)は十月二日夜四ツ時を少し過ぎたころ、
知人の家で地震を聞き、戸を一杯に開いて、尚強くなれば
走り出ようと待っていたが、その中に静かになった。去冬
江戸で逢った地震よりやや強い。自分の家は別条なく、塀
瓦を数片落しただけである。翌日、下町の町家の土蔵一棟
が、崩れたとか、壁や瓦庇が落ちたとか、所々の被害の噂
を聞いた。江戸大地震の事を知ったのは、四日の朝食を終
わるころで、ある人から申して来た(8)。これで情報集めで知
られる南梁の活動が始まったのである。
江戸街道の被害
当時江戸大地震が常総の町や村にまでどの程度に影響を
及ぼしたか、と問われれば、多くの人は影響は軽微であっ
たと答えるだろう。そこで少しでも正確に知るため、江戸
から水戸へ行く旅人の道中宿場宿場の見聞記(江戸より水
戸迄道中宿々地震強弱之次第書(9))を利用して、各宿場の被
害の様子を第二表に作成してみた。江戸街道の十五宿の中、
死人が出たのは新宿(葛西)で十七、八人、潰家も多い。
松戸は潰れ家十五、六軒、人家横倒し数知れず。その次が
取手で死人両三人、潰家も所々にある。藤代では地面が割
第2表 江戸街道宿駅の地震被害一覧(千住より)
新宿
(葛西)
松戸
小金
我孫子
取手
藤代
宮和田
牛久
土浦
稲吉
府中
竹原
片倉
小幡
長岡
潰れ家多く、死人十七八人、藤屋・中川屋客四~五人
即死。
潰れ家十五~六軒、人家横倒し数不知、宿中大被害。
少々静か、潰れ家なし、痛みだけ。
無事
死人両三人、潰れ家も所々にある。
右同様、永田屋辺地面割れ、痛み家多く、所々砂吹出
す。
少々の事にて大きに静か。
右同様、少々厳敷、壁等はあらまし落ちる。
大町辺厳敷土蔵大半痛み、本潰れは無庇落ちる。
静か。
所々土蔵大痛み、潰れ家も少々あり、通り筋にはなし。
水戸城下まで同様。
(水戸へ入る)
れ、家の被害が甚だしい。府中、竹原、片倉、小幡、長岡
から水戸へ入るに従って静かになる。このように死人や潰
家が相当出ているので、被害は軽微とは言われまい。江戸
に近い程地震の影響は激しかったのである。
両田の死
両田というのは、斉昭を補佐して政界に活動する戸田忠
敞と藤田東湖との並称である。水戸の人々は親しみを込め
て両田と呼んだ。この両田も地震の威力にはかなわない。
その最期の時が訪れた。即死だというから天保改革の夢を
見る暇もなかったことだろう。駒込住いの江戸御文庫役久
米幹文(健次郎)より御国同役への書状抜書(10)(安政二年十
月五日)に、「江戸の屋敷の重役衆の部屋も混乱して、泊
り番に当たっていた鈴木勝四郎の姿が見えず、即死したの
であろう。御殿の大奥向きも大部分が壊れてしまった由、
女中にも怪我人が大分出たとのことである。戸田忠大夫殿
は一旦逃げたが、御用箱を取り落したので再び座敷に入っ
たところ、大梁が落ちて即死した。子息も大怪我で、息が
あるというだけで、とても助からないということである。
藤田誠之進殿は老母を背負い転んだところ、老母は先の方
へ転んだので無事である。藤田殿は背中へ大物が落ちて来
て即死である。近藤次郎左衛門の奥方が四才の子を抱いた
まま両人とも即死した。近藤造酒衛門の跡、家督の三八郎
とか申す人が即死して、首と胴が別々に出てきたそうであ
る。御家中怪我人よりは即死の方が多くて凡そ六十人程は
昨三日迄に承り申した。怪我人等は多分で、誠に恐怖して
おります」と書いてある。まだ正確な人数は分かっていな
いのであるが、五日までに六〇人の即死者とは驚くべき数
である。「水戸藩史料」に依ると、即死四六人、負傷八四
人と記されている。
藤田東湖は嘉永六年四八才、斉昭より名を誠之進と賜わ
り、戸田忠敞も名を忠大夫と賜わり、両人協力して主君を
補佐して忠誠を尽すようにと命ぜられた。そして藤田は側
用人兼勤、学校奉行兼職に任ぜられ、役料物成を加えて、
都合六百石となった。一方戸田も家老に登用され、知行千
石を下賜された。こうして藩政改革に多くの期待を受けて
活動を続けていた二人が、不運にも夜半の震災に遇い急死
したのである。二人の屍は斉昭の意向で水戸に送り葬られ
ることになった。
弘道館訓導の石河幹修(11)(明善)は、上京在勤中の父親幹
忠の安否を気遣って水戸を出立して、江戸街道を南下し、
昼夜兼行して十月五日、藤代川を渡った。川を渡った辺り
では、地面が数ケ所も[圻|さ]けていた。宮和田、藤代両宿共に
潰家があり、取手宿にも潰家又死人があった。藤代で朝飯
を喫して先に行くと、我孫子から一里ばかり先に数人の人
が馬に乗り、荷物が壱荷来た。近くになって見ると、家老
の戸田殿の屍である。島田村(常澄村)の木村三穂介(12)に聞
くと、是は家老の供をして水戸へ下るのである。続いて藤
田先生の屍も下る。あとへ吉田村の甚三郎と任蔵が供をし
ている。ちょっと話をして別れた。馬上で通行したのは親
類与力等数人である。千住にて日が暮れた。夜五ツ時小石
川に到着。この時又地震があった。久米へ一泊した。夜中
に兄幹孝が来宅して談をした。皆々無事を賀して大悦、斜
ならず。「石河明善日記」十月五日の記録である。
水戸へ送られた両田の屍は、藤田は常磐共有墓地、戸田
は酒門共有墓地にそれぞれ葬られた。青山延寿の十月九日
の日記(13)によれば、藤田の柩は十月八日の夜水戸着、送葬は
九日とあるが、戸田の記述はない。わざわざ斉昭が遠路二
人の屍を送り届けたのは、中国の古来の習わしを知ってい
たので、丁寧に屍を郷里で葬ってやるように言いつけたの
である。斉昭は弘道館教授の青山佩弦斎と彰孝館総裁の豊
田天功の両学者に一人ずつの碑文を執筆させた。こうして
二人の功績を末長く水戸人に語り伝えさせたのである。両
田の死は、水戸藩改革派の発展のためには大きな打撃となっ
た。
思うてここに至れば、災害と地震と政治とが、歴史の奥
深いところで交り合っていることは確かである。
救急活動
水戸藩の江戸屋敷は上(小石川本邸)中(駒込)下(本
所)の三屋敷であるが、各屋敷の被害状況は次の通りであ
る。
(14)小日向小石川辺
水戸様御屋形
右之御長屋七棟程、并表御門脇腰懸壱ケ所、且外構練塀
皆潰、御殿向大損じ、其外土蔵等大破
本郷駒込谷中辺
水戸様御中屋敷
右之内長屋三棟程皆潰、其外大破
本所辺
水戸様御下屋敷
右土蔵并長屋廿八ケ所潰
これ等を一見すると、御屋形建築が土蔵建築などと比較
にならぬ程、立派なものであったことが推察される。また、
神田お玉ケ池辺りに隠れ住んでいた線姫様御守殿と言われ
る一人の女性の居宅も被害にあった(15)。この線姫は京都の有
栖川宮の姫君で将軍の養女として関東に下って水戸家(慶
篤)に嫁した女性である。水戸家の御家騒動に巻き込まれ
て孤独な生活を送り、若くして他界した女性として知られ
る。この様な女性が小石川本邸の近くにひそんでいたと知
る人は甚だ少いであろう。水戸家の下屋敷は本所であるが、
本所の石場には水戸藩の国産物を多量に積み置き、江戸商
人や大坂商人などと取り引きしていたので、そのためにこ
れほど多数の蔵(二八棟)を必要としたのである。これも
また幕末産業経済史における水戸藩の勧業政策の史料とし
て注目される。
ただし、地震で被害を受けた武家屋敷を調べて、何か珍
しい史料を掘り出そうというのではない。幕府はこの震災
で大きな打撃を受けながら、なお強い権力を振って、武家
屋敷の大厦高楼と小侍の小屋も見落さず調べ出し、被災後
の跡始末、都市の再建に役立たせようとしていたことに感
銘を覚えるからである。又江戸住いの水戸人が復興のため
苦労したことを、歴史に伝えたいと思うからである。
水戸の藩政府の救急活動も敏速であったと言えるものだ
ろう(16)。十月四日夜執政白井久胤(織部)、奥右筆頭取新家
政忠(半之允)が江戸に向かって出発した。更に金を江戸
に送るにつき、五日の朝城を出て江戸に向かった人々(17)は、
次の通りである。
御金弐駄 御役金奉行 宮田銀蔵
五千両之ヨシ 御役金手代 長谷川豊次郎
付添御先手同心 六人
同日御先手同心 二十人 今朝出立
御用達再勤 大場弥衛門
この大場の御用達再勤は、藩政再興の諸務を指図するた
めであろう。五日夜になって普請奉行、大工など次のよう
な人々(18)が江戸に向かって出発した。その名前は
御普請奉行 薄井十兵衛
御普請方中役 小沢三衛門
同元〆 湯沢貞助
同手代 横須賀左右介
同大工 壱人
同心大工 壱人
手木 壱人
御抱中人 拾人
大工世話役 拾人
大工 百人
(これは郷村より一郡二五人ずつ四郡
で一〇〇人を江戸に上させた。)
この後も国元から大工や人足を江戸に送って一行に協力
させた。味噌七〇樽、お台所で貯蔵の分が十月十二日、十
月十九日、江戸に運ばれた(19)。又水戸の上町、下町から人足
二五人ずつ都合五〇人、三〇日の間「お手伝い」として上
らせられ(20)、そして四郡の中からも一郡あたり人足六〇人ず
つ、都合二四〇人が江戸に上らせられた。外に小川村(小
川町)の土方師平七が子分一〇〇人を召連れて同様に上り、
江戸へ出て日数十日の間「御手伝い」をした。
こののち本格的な復旧工事が進むにつれて、その費用は
増し、財政難に苦しむ諸大名をいよいよ苦しめた。水戸藩
では領内の郷村の有志たちが献金運動や献品運動を起こし
て金や品を集め、それを献納した(第三表参照)。長倉村
(御前山村)の大森家では杉板一三〇〇板、籾二六俵の献
納願いを出している(大森家御用留)。安政三年九月、幕
府は水戸藩の財政難を傍観するに忍びず、金一万両を十ケ
年賦で貸与した(21)。長年にわたる赤字財政に加えて、安政二
年十月二日の江戸震災、それに続いて安政三年の八月二十
五日暴風雨の被害と度重なったので、幕府からの借金一万
両といっても莫大な負債に苦しむ者にとっては、何程の力
になったであろうか。また民間からの献金も安政四年三月
までには二万三千両(22)に上ったといわれ、同年六月頃にもな
お、郡庁の命令で、献金者の人名および金額の調査が行な
われているが(23)、それもどれほど赤字財政の解決に役立つも
のであったろうか。震災の痛手から脱け出すころには、藩
の勘定奉行から藩の重役宛に赤字財政を嘆く書類が幾通も
提出されて、重役たちの面を暗くするのであった。
こうして安政江戸大地震は水戸藩政にとって、その当時
も、またその後の歴史の経過のうちにも、大きな傷痕を残
していったのであるが、水戸藩の政治史の上では、両田の
死以外には余り大きな印象を残さなかったように思う。
斉昭は震災後の幕政改革案として、財政支出の月額の一
定、供づれや儀礼の簡素化、生活費などの大節約、江戸の
人口の削減(人減らし)、屯田農兵の実施などを主張して
いるが(24)、これらはいずれも震災以前から斉昭が強く幕閣に
要請していたものである。そして震災を機としてこれらの
「御改正」実施の好機であると斉昭は閣老らに諭したので
ある。
十月六日阿部正弘宛斉昭書状(25)には
二白、此度の地震ニ可恐義、是に而も御改正に不相
成候ハバ、又此上如何様の事有之候も難計候。先づ各
方において無御恙、責而もの事と存候、不一
このように震災は幕政改革の好機となり、革新の気運を
高めたのであるが、これを指導する人物が幕閣にはなく、
ついに英断に富む施策を期待しても効果がなかった。要す
るに改革の成否は人物次第である、ということを思い知ら
されるのである。
注、(7)・(9)・(10)「江戸大地震細記」 (茨城県立歴史館所蔵)
第3表 鉄釘、棕梠縄等献納目録
(那珂湊市郷土資料集成第2集安政二年十月)
村名
種類
数量
湊村
鉄釘
1800把
磯浜村
〃
800〃
大貫村
棕梠縄
700房
塩ケ崎村
縄
1000〃
川又村
〃
600〃
柳沢村
〃
650〃
三反田村
〃
1500〃
金上村
〃
500〃
勝倉村
〃
1000〃
枝川村
〃
1000〃
平戸村
〃
400〃
注 湊村は蛭子屋長四郎、大里屋市郎兵衛、各々
所持の鉄釘800把、計1600把買上。大貫村は
嘉兵衛8把、権次郎12把計20把買上献納
(8) 「南梁年録」十四、(国立国会図書館所蔵)
(11) 「石河明善日記」八(市内、長山幾代氏所蔵)
(12) 斉昭のため雪♠運動に参加した義民の一人、水戸
に近い島田村(常澄村)の人
(13) 「青山延寿日記」(茨城大学図書館所蔵)
(14) 「江戸地震邸宅破損之記」(東京大学総合図書館所
蔵)
(15) 「南梁年録」十五、安政二年十月二十九日条
(16)・(17)・(18)・(19)・(20) 「江戸大地震細記」
(21) 「維新史料綱要」巻二 殿居茶話
(22)・(23) 「茨城県史料」近世政治編Ⅰ所収 郡庁令達
(24)・(25) 「水戸藩史料」上編乾、巻十四