Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J2500564
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東~九州〕
書名 〔近世別子災害年表〕安国良一著
本文
[未校訂]「住友史料館報第一九号(平成元年六月)」所収
また後者はいわゆる安政南海地震と呼ばれる大地震である。
別子における直接的な被害は軽微であったが、近年地震史
料が注目されていることでもあり、参考までに本店本から
全文掲載しておく。
乍恐以書附御届奉申上候
一去ル五日申上刻ゟ大地震ニ御座候処、夜ニ入少々
穏ニ相成候得共、其夜茂両三度、翌六日六七度、七
日巳上刻大ニ相震、其夜茂三四度、八日ゟ十日迄折
々少々宛相震申候、乍併近来御用方出情仕候ニ付、
諸普請丈夫ニ仕候故歟、所々道筋或者蔵々少々者破
損仕候得共、格別大破損所等者無御座、勿論御用銅
之儀者日々床前三四軒より五六軒程ツゝ吹立居申候
、前条之次第ニ御座候得者、万一減銅仕候程も難斗
奉恐入候ニ付、此段以書附御届奉申上候、以上
嘉永七寅年十一月 銅山御用達住友吉次郎代泉屋卯兵衛
地震による被害は軽微であったが、むしろ地震直後に起こっ
た涌水の問題にこののち悩まされることになる。別子では
これ以前にも天明五年(一七八五)、文政八年(一八二五)
の二度の大涌水を経験しているが、ここで注目しておきた
いのは、この地震の発生以前の嘉永三年(一八五〇)の時
点で文政以来の涌水が引き干された事実である。天保九年
(一八三八)七月の届書によれば一旦涌水が引き干された
ことがわかるが、その後一時的な湛水もあり、完全に引き
干されたのは嘉永三年になってからである。もちろんここ
には経営者側の並々ならぬ努力があったことは疑いないが、
地震を挟んでの排水の完了と大涌水という事実に地震と涌
水の関連を見いだせないか。今日地震に関する知識の普及
によって、我々素人でも東海道・南海道における大地震の
発生がフィリピン海プレートの動きに起因することを認識
できるようになった。南方からのフィリピン海プレートの
圧力による涌水の減少ないしは停止、そして地震後の圧力
減退による再涌水という仮説を立てることも可能ではなか
ろうか。このほか被害届は確認できないが、安政二年四月
二十四日夜にも地震が発生しており、涌水が一段と増大し
たことが知られる。 『新収日本地震史料』第五巻(東京大
学地震研究所編、昭和六十年)には、鳥取、赤穂、土佐幡多で
有感地震・被害があったと記載されている。
出典 新収日本地震史料 続補遺 別巻
ページ 863
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県
市区町村

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

IIIF Curation Viewerで開く
地震研究所特別資料データベースのコレクションで見る

検索時間: 0.001秒