[未校訂]安政三年(一八五六)の正月中旬から四月上旬の家普請
で再建した蟹江新田村大海用の山田家の古材書付けによる
と、安政元年十一月四日の五ツ時(午前八時)ごろに大地
震があり、翌五日の七ツ時(午後四時)にゆりかえしがあ
り、それから百五十日も余震があった。翌二年八月二十日
(太陽暦九月三十日)の「八ツ時(午後二時)より六ツ時
(午後六時)迄大風ニて、ツナミ来り申候、堤馬上(堤防
上端)より一尺五寸程(約四十五センチ)も水来候」とあ
る。この年は、すでに七月二十六(太陽暦九月七日)から
二十九日まで風雨がつづき、前年の大地震の被害による堤
修復も充分できないために、水害は倍加した。さらに八月
二十日の台風と、午後十時ごろからの高潮によって、予想
以上の被害であった。このような災害時には、富有者たち
による施物(難民救済)があるのが通例であるが、富有者
たちも手痛い被害であったようで、この年の十一月、蟹江
新田組頭武兵衛が、佐屋代官所から施物調べに対して、施
物がなにもなかったことを報告していることによっても想
像できる。