[未校訂]九月、深津与三郎が奥田新田再開発に着手した。十一月四
日の震災により破壊された。
十一月四日、午前八時、マグニチュード八・四の大地震が
あった。米津村で森前堤が崩れ、一色村海岸新田は各所で
堤が切れ浸水、江原村では断層が生じ、寺津村では七三軒
の家が潰れ、平坂村では西の矢作川堤防が沈下するなど各
所に大きな被害があった。中根新田でも破堤浸水した。二
十日には高潮が海岸地帯に襲来し、被害を出した。余震が
十二月七日まで続いた。
―「十一月四日 大震 五ツ時家内小屋出 五日 深溝
陣屋斎藤三十郎 彦兵衛 中間上下三人 江原村難所見分
済み 岡島村鳥居半兵衛宅へ寄り帰る 五日より日に十度
[震|ゆ]る 平助 梶荒井 矢曽根 菱池 西尾水野様(西尾藩
年寄)鈴木与右衛門様(同上)見舞い 十三日 仮小屋よ
り 夜、宅へ移る」と岡島村鳥居半兵衛が日記に記した。
―十一月四日の地震により、西尾藩年寄水野宗右衛門(錦
城町)の門長屋邸宅が倒壊大破した。須田町から城内に入
る新門の一の門(冠木門)、二の門(多門)が大破し、姫
丸門も大破した。修理願いを幕府に出して修理した。
―十一月四日の大地震による災害救恤のため、西尾藩は領
村一色村(一色町)へ米二〇〇俵、藤江村(同上)へ米七
俵、西実禄新田(同上)へ米一三俵を施写した。
十一月九日、諏訪氏下永良陣屋の大山多喜之助、神谷松五
郎が供仲蔵を連れて、渥美郡、宝飯郡の地震災害見分に早
暁出発した。渥美郡伊古部村は[半転家|はんころび]二三軒、大羽根山は
長さ八丁沖へ押し出し、船三艘破損流失、田地割れなど、
同城下村は半転五軒、道路破損、同江比間村は転家三、半
転四軒、堤、道破損、同宇津江村は田地冠潮、同小塩津村
は半転家五軒、船三艘大破、四艘流失などの状況を見分し、
宝飯郡白鳥村に立ち寄り、十一月十四日に帰った。
十二月、十一月四日の地震の被害のあった村々の窮民に、
藩は「拝借米」を貸し付けた。たとえば、小焼野村では米
五俵を五か年期で借り、窮民に割りあてた。この年に「風
難」もあったと見え、風難により米一俵を三か年期で貸し
与えられている。
十二月、義倉が道光寺村惣吉に米二五俵を貸し付けた。以
後、各所へ貸し付けをして、義倉基金の増加をはかった。
(安政二年)
八月二十日、大暴風雨。寺津村浜通り浸水、新田に潮が入っ
た。中根新田は前年の地震による破堤を修理したばかりの
ところ、再び破堤した。大金を投じて堤の普請をした地主
都築善之助は、翌年小作料を引き上げようとして小作人と
の間に紛争が生じた。
(安政三年十二月)
―嘉永七年十一月四日の地震で倒壊した矢曽根町明泉寺の
四脚門が名古屋大津町伊藤平左衛門により再建された。費
用一〇四両一分を要した。