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項目 内容
ID J2500469
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東~九州〕
書名 〔西尾市史(年表)六〕西尾市史編纂委員会S58・1・28
本文
[未校訂]九月、深津与三郎が奥田新田再開発に着手した。十一月四
日の震災により破壊された。
十一月四日、午前八時、マグニチュード八・四の大地震が
あった。米津村で森前堤が崩れ、一色村海岸新田は各所で
堤が切れ浸水、江原村では断層が生じ、寺津村では七三軒
の家が潰れ、平坂村では西の矢作川堤防が沈下するなど各
所に大きな被害があった。中根新田でも破堤浸水した。二
十日には高潮が海岸地帯に襲来し、被害を出した。余震が
十二月七日まで続いた。
―「十一月四日 大震 五ツ時家内小屋出 五日 深溝
陣屋斎藤三十郎 彦兵衛 中間上下三人 江原村難所見分
済み 岡島村鳥居半兵衛宅へ寄り帰る 五日より日に十度
[震|ゆ]る 平助 梶荒井 矢曽根 菱池 西尾水野様(西尾藩
年寄)鈴木与右衛門様(同上)見舞い 十三日 仮小屋よ
り 夜、宅へ移る」と岡島村鳥居半兵衛が日記に記した。
―十一月四日の地震により、西尾藩年寄水野宗右衛門(錦
城町)の門長屋邸宅が倒壊大破した。須田町から城内に入
る新門の一の門(冠木門)、二の門(多門)が大破し、姫
丸門も大破した。修理願いを幕府に出して修理した。
―十一月四日の大地震による災害救恤のため、西尾藩は領
村一色村(一色町)へ米二〇〇俵、藤江村(同上)へ米七
俵、西実禄新田(同上)へ米一三俵を施写した。
十一月九日、諏訪氏下永良陣屋の大山多喜之助、神谷松五
郎が供仲蔵を連れて、渥美郡、宝飯郡の地震災害見分に早
暁出発した。渥美郡伊古部村は[半転家|はんころび]二三軒、大羽根山は
長さ八丁沖へ押し出し、船三艘破損流失、田地割れなど、
同城下村は半転五軒、道路破損、同江比間村は転家三、半
転四軒、堤、道破損、同宇津江村は田地冠潮、同小塩津村
は半転家五軒、船三艘大破、四艘流失などの状況を見分し、
宝飯郡白鳥村に立ち寄り、十一月十四日に帰った。
十二月、十一月四日の地震の被害のあった村々の窮民に、
藩は「拝借米」を貸し付けた。たとえば、小焼野村では米
五俵を五か年期で借り、窮民に割りあてた。この年に「風
難」もあったと見え、風難により米一俵を三か年期で貸し
与えられている。
十二月、義倉が道光寺村惣吉に米二五俵を貸し付けた。以
後、各所へ貸し付けをして、義倉基金の増加をはかった。
(安政二年)
八月二十日、大暴風雨。寺津村浜通り浸水、新田に潮が入っ
た。中根新田は前年の地震による破堤を修理したばかりの
ところ、再び破堤した。大金を投じて堤の普請をした地主
都築善之助は、翌年小作料を引き上げようとして小作人と
の間に紛争が生じた。
(安政三年十二月)
―嘉永七年十一月四日の地震で倒壊した矢曽根町明泉寺の
四脚門が名古屋大津町伊藤平左衛門により再建された。費
用一〇四両一分を要した。
出典 新収日本地震史料 続補遺 別巻
ページ 650
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 愛知
市区町村 西尾【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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