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項目 内容
ID J2500440
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東~九州〕
書名 〔島田災害考〕紅林時次郎著S50
本文
[未校訂]嘉永七年十一月四日晴 五ツ半時大じしん。此時清太郎
儀、遠州見付宿古田屋平八と申大家に細工致し折候処、
じしんゆれ出し早々庭へとび折見廻す所、三方は蔵にて
取まき近よる所無、其蔵の前に山桃の木有之候処其の木
の根にすがり折候得ば、三方の蔵くづれ来り用々なんを
のがれ、四日五日六日右三日の間昼夜共ゆれながし、六
日夜門人むかい参り七日に見付宿出立致し、見附宿七分
つぶれ出火、無東坂松風やと申内には、老父母二人嫁一
人家三人死去致し、其外六人斗死す也。袋井宿惣つぶれ
出火にて不残焼、死人百二十人斗有之。宮寺は申におよ
ばず掛川宿迄残りたる家一軒も無之、右掛川宿入口十九
首町入口より出火にて半分焼、宿内惣焼にて下土蔵一文
字屋と申上一ツ残りたる斗也。御城皆くづれ宮寺は申に
およばず秋葉山犬人死二百人斗有。唐金鳥居こまかくお
れ 往来は三尺斗に穴あき、又二丁斗之内行道三尺通り
地にめりこみ、又は四、五寸斗のえみ入、用々日坂宿に
参り見る所、当宿は格別は無之。峠茶屋皆つぶれ金谷宿
九分通りつぶれ往来へ土と水吹上道悪し、出火無之。用々
島田宿へ帰宅致し当宿にては五丁目魚問屋嘉太郎、大阪
屋平左衛門、魚屋留吉三間つぶれ、此内大阪屋重左衛門
家内伜一人下女一人二人死去致し、其外七丁目うなぎ屋
けん助養子友吉と申者山家に用向有之候て参る道にて、
岩石切れ落五体こなみぢんに相成候て死す。又は甚兵島
にて女一人山にて死すも同断。三丁目和泉屋所左衛門方
つぶれ、一丁目大村屋桝屋山三郎三間つぶれ皆々大破損
也。右四間は裏にて小家造りすまいす。十七日用々内へ
引うつり十九日の七ツ時分大きくゆれ是迄小じしんは度々
有之。十二月六日夜七ツ時又大ゆすれ。卯正月廿六日夜
七ツ時大ゆすれ、廿七日夜五ツ半時大ゆすれ、是迄昼夜
度々小ゆれ有。
二月十八日夜初倉山(八倉山)くづれ来り伊太村田地百
俵成つぶれ里家壱間つぶれ家内老女一人嫁一人子供二人
四人死す。家人は大石の下に成かげかたち無之なれば成
次第也
(中略)
嘉永七寅年大地震之節、当所大明神表石鳥居くずれ
落、夫より安政三辰年九月十三日出来
此時世話人 尾張屋保六
大工棟梁 嘉六 同虎吉
金物上下銅にて焼うるしを掛
時計師清太郎 巻之
(大武清太郎文書)
安政二年二月 季節外れの大雨があり、伊太八倉山の両側
面が深夜大崩壊をなし山麓にあった農家一戸と家族五人
諸共土中深く埋没し、然も田代部落から流下して来る谷
川を堰ぎ止めてしまったので忽ち崩壊地から上流は大き
な池となり、一般では八倉池と称し伊太谷川の源をなし
た。土中に埋没した農家は、岩石の下深く、遂に発掘す
ることが出来なかったので、その上部に当たる地点へ供
養塔を建てて霊を慰めていた。大正年代になって此の池
は治水事業によって名残をも止どめなくなったが、八倉
山崩壊の原因は嘉永七年十一月四日の大地震に西側山腹
へ大きな亀裂を生じ、危険となっていたのが偶々大雨に
附し、遂いに崩壊するに至ったものであった。
出典 新収日本地震史料 続補遺 別巻
ページ 583
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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