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項目 内容
ID J2500350
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東~九州〕
書名 〔片葉雑記―色川三中黒船風聞日記―〕○土浦中井信彦校注 S61・7・30 慶友社
本文
[未校訂]四日己巳西風晴、寒風漸く強くなりて氷もはる。昨日迄は
暖に過たり。
大地震・一天雲なくして音如雷 朝五ツ七分許大地震、
初静にゆり来り後つよくなりて足もとふみこたへむづかし
き程也。正油桶煮込こぼるゝ。近来無之と云々。地震や
みて後雷声の如く長くひゞく。風の落したる故などいへる
人あれども、さまでの風もなし。もし山などの崩れたるな
らば地ひゞきあるべし、夫なきはいかゞ。古記録にいふ一
天雲なくして雷鳴とは是をいふか。とにかくに不思議の音
也。西風なれば満天にさはる雲一点もあることなし。ふし
ぎふしぎ(補注25参照)。
五日晴、地度々震ふ。
六日晴、朝五ツ過時音大なる地震、惣て三日朝大地震後度々
震ふ。
江戸地震の事 夜に入竹中甚兵衛来物語、一昨六日江戸よ
り帰る。四日に小網町より小船町へ行とて、途中地震にて
立こらへられず、はひて辻番のてすりをとらへてふみ留た
るに、向の蔵のひさし落たり。惣じて蔵々皆いたむ。ひさ
し多く落る。川々津浪一丈計り押来り小網町辺水上へ上る。
仍て難船多し、長屋潰れたる屋敷も多しといへり。
或言、銚子辺(以下欠文)
九日曇、夜に入雨降、「此(朱書)夜山は雪多く降」艮風。地震
夕刻一学(大久保)来帰り語言、彼近辺一里又半道にて地
震強弱あり。久(くげた)下田(結城郡八千代町久下田)辺にては藍屋
のかめ地上へ抜出たり。近所はたゞこぼれたるのみと。此
辺よりはやゝ強かりしかしらず。但日光辺よるほど強かり
しが、供につれたるもの其節雀の宮にありて帰らんとして
途中何となく眩暈し来るに驚くほどに、人皆家をにげ出る。
仍て地上にはへてしのぐに、小堀などは水をふるひあげて
水渇たりとぞ。地も五分位づゝ割たる処多し云々。仍てお
もふに日光山の辺へ寄るほど強き方と見えたり。可恐こ
と也。
十日晴西風。津浪 下総飯岡先日津浪にて家六軒流さる。
佐原辺水押あげしは八ツ過時なりしといふ。江戸崎(稲敷
郡江戸崎町)辺は江の水の濁りしといふ。土浦辺はたゞ泡
立ちしのみ也。
江戸出火の事 二日に湯島辺焼、四日夜に地震の夜也猿若
町より失火三丁不残焼、聖天町花川戸駒形辺までやける。
其外毎夜度々失火如以前。抑此両三年天水桶其外御趣意
厳敷、火事遠ざかりし処又々如此と云々。
地震 昨夜定兵衛(船頭)文蔵来る。地震にて江戸中破損
蔵尤多し。人死百八十余人と云々、珍事といふべし。四日
の四ツ前故満汐の上に津なみゆえ、夫に引れたるも多しと
いふ。
遠州路地震の事 昼過時、仙台侯飛脚自大坂書状到来、
善助(1)并小嶋屋、日長(英連)等より也。十月廿日并廿一日
両日に出し候也。右嶋や飛脚上方飛脚の話を語り継で言、
遠州見付の宿にして右の地震に逢ふ。遠州路尤大なり。夫
よりあなたの事は跡になしたる故不知云々。但し道中人
馬さし支可有之に付、六日限八日切等書状は当分請取申
間敷と云々。是にて其大抵を知べし。廿日時分迄には石河
金助帰郷可致よし、其節くわしくわかり可申歟。○或言、
三嶋宿右にて半ばに過て潰家あり、如何しらず。
十二日晴、昨夜今朝寒気強。
昨日嶋屋飛脚より承候趣、仙台飛脚書付左の通写し置事。
東海道大地震 東海道筋大地(2)震
一当月四日辰の中刻、三嶋宿より遠州見附宿迄不残震り
潰す。夫より出火して御城下は勿論町々又在々も出火、
又潰家夥多し。見附宿より上方の方は跡になし候間わか
りかね候へども、夫より江戸の方は経来る趣あらまし
如此。
但し今八ツ時より人馬継立不相成由に付、早便並便
とも相休み居候間、書状請取申間敷旨云々是は京より
下る飛脚の話を仙台飛脚の下るより書付を以て申たる趣也。
浅草火事 江戸出火
一当五日夜戌中刻、浅草猿若町壱丁目東表通り油屋の裏よ
り出火、西風強く芝居町不残、花川戸山の宿瓦町不残、
聖天町は残る。北は山谷橋壱丁目程手前北新町片がは
不残、南は東橋より壱丁半ほど北まで、夫より馬道へ
少々焼ぬけ、折ふし西風強くして山の宿川岸通へぬけ、
追々飛火にて小梅水戸様御下屋敷焼、同所過半焼失、大
凡五丁四方類焼、翌寅の中刻静云々。
地震の事 按地震は駿遠参甚きか。大坂へ登りたる石河金
助十月廿五日に同所出立して伊勢参宮より帰りしよし、如
何被案候事也昨日十月廿一日出書状より申来る処なり。○木原
君(行蔵)語言、笠間親類中同所も此辺より強かりしよし
云々。
(1)善助、田宿町薬種店の手代で、三中の従妹を大阪から伴う用務
で大阪に赴いていた。小嶋屋はその従妹の奉公先である。この
日のこと弟美年の日記にみえる。
(2)三中の黒船関係文書記録集である『草乃片葉』の巻三十二、三
十三の両巻は、「十一月地震一」「十一月地震二」と表書されて
いる通り、東海大地震の記録集に宛てられており、この「東海
道筋大地震」は巻三十二の冒頭に収録されている。
十三日晴大霜、寒冷厚氷はる。
東海道地震の事 夜に入金二郎(弟美年)来る、東海道小
田原には潰家なし。箱根の宿間々家潰れ、三嶋は甚しく潰
れ失火して焼る。伊豆下田は津浪にて七十軒ほど流る。東
海道ご(御油)ゆ神(蒲原)原等五宿は人馬通行無之云々。又駿州田中な
ど人家大潰れ、其外信州松代より飛脚、信州も先年同様に
震ふ云々。甲州も甚しといふ。是等江戸表より申来候あら
まし也。
十四日晴、西風寒気川氷る七ツ時より雲しぐるゝ。八ツ時竹
中甚兵衛従江戸帰る。堀田原諸葛(二郎助)并中條(瀬兵
衛)等より地震の見舞状挨拶あり。東海道地震甚しくして
いまだ道路不開、飛脚通用なしと申来る。行燈を東海道
へ遣す事 従公儀[行燈|アントウ]三四千御造らせ東海道辺へ被遣
候よし、地震の場所へ也。
堀田原より申来る、大阪へ金助為登候事に付当月初荷物
とゞき候間、一同女中も下り候事と存候へども未見如何、
東海道大地震にて怪我にても有しにやと驚恐にて毎日相待
と申候。
十八日晴癸未小寒今暁七ツ四分に入る。昨夜より尤寒気甚
しくなる、感夢あり。
地震沼津 八ツ時木原祐蔵君(老谷)来話、先日御組のも
の某自大坂下る。沼津の宿に近き畑の内にて地震に成る。
平座して草をとらひて凌ぐ云々。其内沼津宿皆潰れ、
火事出来中々目も当てられぬ様なりと云々。 「三(朱割書)日野宿して
人馬人足一切無之、漸通り来る。沼津宿に飪婦壱人圧にうたれ、腹
中破れ小児そこより産出せしを[見|ゲン]にみしと云々」
大坂 大坂も此六月中の地震より強くして御城所々地破れ
追手御番所くづるゝ。京都は平安云々。夕刻大坂津浪、あ
じ川辺迄大水来る、大船沖合より矢を射るごとく流れ来て
多く破船す。○伊勢四日市等又震云々。志摩国城下悉なく
なりしと云々。伊豆下田○伊豆下田は津なみ甚しくヲロシ
ア船破損即死壱人、ハツテイラ壱艘失ふ、怪我人甚多し。
下田宿は七分通り家も人もなくなりしよし。筒井肥前守殿
古我(賀)謹一郎殿等先日より応接役被命、出役の所筒井は海
禅寺とかいふ小山の上の寺に宿す。水寺につきて諸物を流
さるゝ。古我(賀)先生は町方に宿す。わづかに御朱印并大小を
所持して漸にして助命と云々。(補注27)
十九日晴寒気甚し。厚氷はる。空の気色 朝日指たる朝甚
赤し、空霞みわたりてそこより日出る故也。惣て此日頃の
どかなれば、そら霞むも甚不思議なり。たゞし誠の霞なら
ば月影は濛朧たるべき筈なるに、月影は霞と覚しきそらよ
り恐ろしき迄に凛々たり、毎日風なければ如此、誠に可
恐事也。又寒中をも恐れず、日中くらき処などに蚊出るこ
といづ方にもありといへり、是も不思議なり。
不震所 永井村永井本郷とてあり山へよりたる六軒の処は
地震ゆらず。そこに経師をする物あり。今日来て語言、わ
れら物張て家にありし故たとへ少しの地震にても知ざる道
理はなきを一向になしと。但し地震後の音をば聞之と云々。
以三郎という男也。醬油を商売す。北条へ通る道あるより
山へよりたる六七軒は本より地震なしといひ伝へたりとい
ふ云々、尤不思議也。此六軒の外は山よりにあらず、いづ
れも地震にてさわぎたるよし也。
東方光ありし事 五頭氏(玄仲)来語言、地震前毎夜巽の
方電光あり、是震の兆と見えたりと。成程十月中より毎夜
たつみの方いな光りありしなり。其時おもふに海中に雷気
は有間敷ことなるに如何と思ひしが、今此話に思出るに是
必震動するの兆也と見へたり。又おもふに是は海中よりゆ
りて地中に雷せしと同じこゝろにやあらん。
駿府九能山 七ツ時頃菅右京子(菅原長好)水戸より帰る。
水戸地震大方土浦に同じか。駿州九能山大に崩れ、尚又一
段崩れ候ては神(平出)君御廟も危との事にて一旦脇へ御迁座勘定
(請)又々如本うつし奉りしとぞ。御廟も痛たるよし也。富士
川不流○富士川は川の上にて山崩れたるにや、水流れず
干上りたりといへり。先年信州の如きことにはあらずや、
可恐事也。山奥はいまだ慥にわかり兼たるよし云々。○
宍倉(新治郡宍倉村)治助(経師)田宿に一両日在りて今日
来り、宍塚村なども堅き土地にや地少しづゝわれたりとい
へり。駿府 近小横山町近江屋小兵衛方(江戸薬種問屋)見せ
のもの此節田宿店に宿して語言、其節駿府に滞留してあり
しが家潰れたれど家内は一人も怪我人なし。官より人を出
して火を防ぎて火事にはならず、仍て翌日になり荷物を掘
り出す。御城も大に破損したれど、町々の事も御政治行届
たるに仍ても駿府は脇よりは軽し云々。盗賊多と云事 寄
残の家に世話になりて三日在りて帰る。沼津三嶋等は皆潰
れ、夫よりは駿府は軽く潰れざる処もあり。しかれども盗
賊多くして甚込(困)る。是も官より人を出して防ぎしといへり。
然るに又途中盗賊多くして尤苦行せし云々。○沼津の宿に
行かゝりし当藩の士は、行先通りがたくて三日野宿して漸々
帰る。但し橋下其外に寄宿せし人と供に凌ぎて帰り来れる
也。殊に甚しき沼津の宿にて妊婦の圧死せし也けりと云々。
廿日晴西風、至て静なる故寒気やゝ緩むか。塩問屋廻文、
大坂兵庫伊勢志摩等地震津なみ、塩浜崩れ候よしにて塩直
段引上げ候よし也。
東海道宿々地震の模様の事 当十四日頃八州廻りより書付
出候写、間原氏示之当時東崎分町年寄也。
地震風聞之次第区々にて取留候義無之候へども旅人
等之噂左に申進候
箱根宿
御関所半潰に相成、庭へ番士之者罷出改方取計候由
三嶋宿
宿中無残潰候上焼失、最寄の山々より水流出し明神及
大破石之鳥居倒、三重之塔可成無難、呑水も無之

沼津宿
水野出羽守殿城大破、宿半潰、出火有之、其余同断之

原宿
不残潰候へども火事には不相成、人馬怪我人難分由
吉原宿
半焼失、其余同断
蒲原宿
右同断
藤川宿
河水少しも無之、多分山崩にて水押留に相成候やも難計由
由井宿
宿内所々潰候て火事には不相成候
興津宿
右同断之処、津浪にて多分押流、人馬怪我不分よし
江尻宿
不残潰候上焼失之由
清水湊
久能山御宮及大破候上、津浪にて多分押流され、人馬
怪我余程有之由
府中宿
御城中及大破、市中潰焼失に相成、人馬怪我人等不
相分由
鞠子宿
宿中飛々及潰火事も有之、人馬怪我不相分よし
岡部宿
右同断
藤枝宿
田中城及大破、城下并近辺潰火事に相成、宿内飛々に
及潰出火も有之由、人馬怪我不分
嶋田宿
宿内八九軒及潰焼失も有之由
但三島宿より大井川迄之間宿々継立差支、旅人休泊は
勿論食事等一切無之、川止にて右より先宿々之模様
更に難分候へども、多分同様に可有之由に御座候
○甲府之事
御城中ケ成無難、少々づゝ倒痛、市中は荒増焼失人馬
怪我難分よし
身延山近辺鰍沢最寄八百軒余焼失、漸五六十軒も家形の
み相残候由に御座候
信州諏訪高遠辺も所々震ひ、両城共及大破、一旦往来
止り人馬怪我も有之由
右之通及聞候事
伊豆下田○又諸人来会話に言、伊豆下田在留ヲロシア船に
命を助けられしもの六七十人、皆津浪にゆられ流されしも
のをいふか。
廿一日晴、西風静此朝頃より寒気又益 午時裏勝手井戸出来。
八ツ時頃木原君(行蔵)来る、大坂江戸伊豆等の書状届書
等持参して被為見、借り置候。地震勢州も大に震と云々。
依之甚旅中に出したる者を苦労す如何〳〵。
箱根より大坂迄潰家の事 夜に入仙台飛脚より諸岡節斎よ
りも書状来る。又中条并石橋(共に江戸醬油問屋)等商人書
状来る。先日八日出の書状には東海道筋通行無之、わか
りかね候よし申来る。西方は豊前国小倉迄大騒動の由 此
度は十八日出也箱根三嶋宿より大坂迄宿々潰れ、屋無之
宿も無之よし。尚又西は豊前小倉迄大騒動のよし、前代
未聞の大変と申事のよし申来り候(補注28参照)。
廿二日晴朝西夕北。ヲロシア船破損 夜に入五頭氏(玄仲)
来話、ヲロシア船破損水船になりし故、浦賀へ廻して修理
致し度よし願出しと云々(ディアナ号大破、戸田へ回航中沈没)。
銚子津浪 下総銚子なあ(名洗)らひといふ処にて津浪にて小舟壱
艘覆没し六人死去す。余波入海へも打入、四日夕刻に佐原
辺迄少々津浪のさまに水打上る。扨伊豆辺の海大地震にて
其余波九十九里銚子迄に及し物なり。仍て夫より東は無事
也。又按昨年十二月初て京都御祈念の事鹿島香取宮へ被
仰付候。右の御祈念中卒に風雨にて湖水波道路へ打あげ、
中々恐ろしきさまなりしは此度の御印と見えたり。鹿島香
取の外は他所は無事なりし也。
如此日本国中地震にて諸国城々潰れ候事言語の外なり。
扨此処にて城普請なくて御改正もあらば目出度かるべきに、
必又強ても普請の事あるべし。諸国の普請抑幾千万両ぞや、
終に下民に取ざることを得ずして後終に如何〳〵。
廿三日朝晴昼より曇。
紀州本宮の湯崩と云 夕刻高津織田氏来語言、紀州辺も地
震殊外強く、本宮の湯震崩し、其外阿波土佐津浪甚しく候
よし、又大坂近海にては大船小舟の難船人死に、実に其数
知べからず云々。
誰人の数へし物には城下五拾六ケ所皆々御譜大名のよし、
又宮社は壱ケ所も倒ず候よし、三嶋明神宮も拝殿破候のみ
にて本社少しも御恙なし。両宮より初て諸国皆如此と云々。
不思議なる事ども也。
廿四日晴至て静、寒気緩まる。
十一月廿五日庚寅曇四ツ時より小雨。
諸国地震津浪の事 昨夜内田文菴老(藩医)来る語言、自
大坂藩中へ飛脚到来。仍て大坂地震津浪の始末略聞及候
所、大坂町奉行の調らべのみ津浪の死人千何百人と申云々。
其外諸々浦々の事思ひやるべし。大坂は地震にて怪我はな
し云々。○讃岐国丸亀城大にくづるゝ、津浪紀州辺同じ。
○加賀国も亦甚しく (ママ)寺城御分地十万石大破に及ぶ。常
総奥羽のみ無事也と云々。○文菴老在所白浜行方郡に月頃
在之、此両三日前土浦へ来る。
鹿島郡地震少き事 鹿島社辺同郡の内地震は取分てすくな
かりしと云々。過日てうし常陸原のものゝ話を聞くに、同
所も至てすくなかりしよしなれば尤可然こと也、古人の
申伝る処、神(平出)徳の著しき事実に如在、八年前未年信州大
地震の時宅内に鹿嶋明神祭置たるものゝ家倒ざりし故怪我
人無かりしかば、早速御礼参りとして鹿島へ参詣のもの土
浦川口へ旅宿せし物語も先年所記置也き。可仰可貴事
也。
大坂地震津浪のさま 八ツ半頃五頭氏(玄仲)大坂より来
れる地震津浪の壱枚摺二枚をもて来て示す。大坂の津浪は
五日のひるなり、文許り写し置ぬ。四日の地震甚しく夫よ
り折節ゆり候まゝ大家の家内、又女郎屋などには女郎ども
を舟にのせて浮たり。是は此六月中もかくして凌しもあり
しまゝに如此なりとぞ。しかるに五日に又大にゆり来て
津浪天保山をひたし、大船矢の如く来りしにしかれて小舟
は皆々覆る。扨々大変の事也。
○当藩交代の足軽(土浦領主大坂城代勤役中)月に両人づゝあ
り。貳人は前に記す如く、沼津の近辺の畑中にてゆり出し、
三日三夜野宿して辛じて帰る。其時登りし両人は十月廿七
日に土浦を出立せしが、彼地に着す如何と云々。又当時江
戸住御目付必(筆)頭山名与兵衛殿、先日の異船騒動ありし御機
嫌伺として殿様へ罷出るとて大坂へ登り、御暇ま申して十
一月二日に彼地を舟にのり出立して四日の大地震なれば、
大坂へ戻りて尚又殿の御機嫌をも可伺筈の処、于今見え
ず、もし怪我歟。又夫へ同道して下るにはあらじかとおも
はるゝ人も多くて、此辺人々の心配我等金助を遣したる心
配に同じ。沼津辺の事○沼津辺の畑にて助かりし足軽両人、
馬に附たりし荷を刀抜て切ほどきて畠の高き処へ登りて転
び居て助りしと言り。其後近辺の者と覚しく一人の老人の
通りかゝれるに言て、大坂御城代の御用荷なり、如何にも
して馬壱疋もとめてよとあつらひしに、漸やせ馬壱疋引来
りてある高き処の樹のかげなどの苦労なき処などに居て、
三日が間は尺々しく行もやらで留まりしに、いと小なるむ
すび壱つを代貳百文にてもとめて三日めに漸く食付て助り
しと云々。
○江戸御城も西丸計ならず御本丸も御いたみと云々。
廿七日朝日の出にいぬゐより黒雲四方におほふ。朝日の光
如紅、後雨交り小雹降る、大雨暫時昼より晴風イヌヰ夕方
日影尚赤し如何。
野之口氏原宿にて地震に逢ふ 留主中綱丸子未来内也江戸
久松町諸岡節斎方より綱丸へ可届の書面来りあり。即ち
同人着披見の処其書中に言、野之口隆正先生十月中江戸出
立、上総辺に罷在、夫より東海道帰路の所、原宿にて地震
にあひ、同宿にて七日滞留の処、迚も先へは行かれずとて
江戸へ戻り、諸岡にて越年のつもりとて十四日に諸岡へ来
ると云々。荷物は破れ損じ候まゝ原宿へあづけ置候よしに
相見候云々。
日光大雷○又言、江戸にてもきゝ又沼森へ或人手状来りし
上にて見たりし、四日地震の時日光山は大雷鳴所々堕て人
多く死す。御宮は恙なしと云々。按に此日は一天に雲なく、
沼森辺にて日光山をみるも只濛々として霞の如く棚引たる
のみと云り。如何にも不思議の事也。
廿八日晴やゝ寒し雖然ゆるし。気候 朝峯治(大久保)社
参して言、四方霞立て如春と。昨日は出る日入日赤色な
りし、皆霞より出入故也。此間雨にて寒気ゆるむ。坤の方
より八ツ時雲大にしぐるゝ。毎日如此十月頃のさまのご
とし。
山名氏東海道中のさま 八ツ半時五頭氏(玄仲)来語茶半斤
持参語言、御目付山名与兵衛殿道中地震に逢候へども無事
にて江戸へ帰り、又御用にて直に土浦へ昨日下り候間、見
舞に出て容子直に聞候処、二日大坂出立江戸へ下るとて石
部と水口との間荒川と云所の宿中にてゆり出す。かごかき
にげてなし。家来してかごを畑中に置しめて凌ぎしとぞ。
五日桑名へ泊る、此辺も強かりしかど大潰れはなし。渡し
渡りて宮宿甚強し。是より箱根迄潰れざる宿はなし。宮宿
は在家皆々熱田社内に荷をはこびてまぬがる。御社中は大
に無事なり奇といふべしと皆人驚きし也。○桑名宿も五日
の夜又大にゆりて宅内を出立て庭中に飯焚などして夜を明
してそこを出立せしと云々。○宮宿より箱根迄の内悉く潰
れたるうち、強き所々は藤川赤坂五井日坂油井などなりと
云り。吉原宿に泊らんとして参りしが、やどる処なくて又
三里進原宿にこして泊す。グレやどなどへとまり、猫のわ
んなどの如きかけたる碗などしていひくひて、日々或は三
里又は都合により十二三里位行ねばならずなどして艱難辛
苦して箱根へ着く。三嶋明神石鳥居又拝殿は倒れたれど本
宮は恙なくましませり。扨山名氏大坂御城代御威光にて漸
如此と云々。
江戸 江戸西丸土塀惣くづれ、其外桜田御門等も其外も屋
根落瓦落壁くづれて大破に及ぶ。深川辺にて材木の上にて
釣したる翁、又本所辺か小船のあはひにて洗たくしたる女
など皆死す。津浪にては死人江戸中にも余ほどありといへ
り。前兆○品川辺四日の朝起出てみるに海水引たること分
に過たり、いかゞと見る内に五ツ六ツ七ツ時大地震なり。
所々皆如此と云り。意を附べき事也。
廿九日晴西風寒気、氷又厚くはる四五日暖にて。
此日夕方大坂おあやどの(梅原あや、三中従妹)連金助(薬種
店手代)帰る。地震の艱難言語に絶す。皆人無事にして帰
来るを雀躍す。別条に記す此事別に記すべければこゝに略す。
(十二月)
二日晴。大坂日長(英連)氏より四日五日大地震の同処の
さまくはしく申来る(1)。夜に入巽方乾方電光あり。
五頭氏加茂氏来る言く、此頃夜に入電光あり流星あり。朝
暮霞棚引、各打寄て物語地震前如此なりし故甚恐る。
二日晴、寒朝霞立寒気はありながらそらの霞はいかゞ。
昨夜高浜(石岡市高浜)大(2)海江戸より帰りとて一泊す。江戸
小石川飯田町くだんの坂御城中等は地震甚強かりしよし。
大船○佃嶋水戸様御世話の大船船卸とて八九十人にて引お
ろすとて騒ぐと云々。内外上方悉銅の分厚にて包みしと云々。
三日晴。朝霞立寒気あり。
日光大雪大雷 夜に入河原代木村主人(藤左衛門)従水戸
帰り一泊す、語言、先月地震の日日光山大雷大雪降多く怪
我人ありと云々。○金二郎(美年)来会、従江戸薬屋書
状大坂より申来る。長崎大津浪 肥前長崎大津浪にて大半
流失すと云々。
(1)日長英連は佐藤民之助(芳定)と共に和方医学の唱導者で、三
中と交りが深かった。『草乃片葉』巻三十二に霜月十五日付英連
書簡収録あり(補注29)。
(2)鬼沢大海(一七九三―一八七三)高浜村名主、本居大平門下、
『常陸旧地考』の著者で三中と年来の親交あり。石岡市史編纂
資料四『鬼沢大海遺稿』参照
四日晴。
出る日三つに成る 大坂より下れる時、両人が伊勢山田の
川崎にて大地震津浪等に逢へる事どもは別に記したれば凡
てもらしけるを、只一寸こゝにいふべし。大坂を廿六日に
出て勢田のからはしにかゝれる頃は廿八日とやらん。或人
のいへるは先日日出の時、日三ツになりて見え給へる朝あ
りきと云々。こは地震のしらせにやいかゞ。
景山公坤方気立 此夜水戸より大久保真菅ぬし帰来言、十
一月四日朝景山侯富士山を御庭より被眺侯処、気立登れ
り。仍何歟災あらんと察し給しが、地震其日の五ツ半時
過なりし、諸人尤奉感き。
六日晴西風寒気甚し。
空霞む、今年気候 今朝此寒気の甚しく西風そよぐに、早
朝のけしき天末に謁気あり。近き山にも春ならばかゝるべ
き霞なるに、誠の霞ならねば山にはかゝらず、たゞ天際に
あり。此日頃大方如此日多し。夕も同じ。又春の霞は月
出るに朦朧たり。此気は月光却ておそれおのゝくほどすご
くおぼゆ。此気ある故月又日の出て入りともに色赤し。昨
夜も巽方乾方雷光あり。一日頃より毎夜なるよし人々集り
いふ、地震前ほし飛いな光あり。又如何と察しける。又空
の気色たゞならず。○又先月地震の前も三ケ月昼見えたり
と人の書面にもあり。それは見ねど此頃も毎日月昼前より
見えとほる。是は去年もしかなりき当夏も同じおとゝしの
冬の頃より覚たり。とかく天に濛々しき気ありて日光をお
さへて日の光やゝ赤く薄き故に月かげの見ゆる理と見えた
り。去年箱根以来度々の地震可恐事也。
七日晴寒気強夕刻又市江戸より帰る。諸国地震 昨夜政吉
(養子)同道吾孫子泊にて、政吉は今日河原代滞留にて又
市壱人帰り来る。江戸平田(鉄胤)橘(冬照)山崎(知雄)
黒川(春村)より書状来る。四国九州皆大地震北越辺亦同
じ。但し四日と五日との違ひに強き処、又四日五日両日つ
よき処色々あり。松前などもつなみなりしよしも見えたり。
大凡神武帝以来の大変如此なることあるべからずと申来
る処なり。江戸地震○地震に小石川の百軒長屋といふが倒
れしといふ。又其後の猿若町の失火に飛火して、水戸の倉
屋敷本所なる板倉多く焼て炭二万俵を失ふ云々。
十日晴寒。
東海道のさま 政吉朔日に江戸着して所々にて聞に、漸一
両日前に東海道に書状下る。伊勢の津より東海道へ出す書
状賃一本金壱分、夫より江戸迄金壱分に合て貳分にて壱通
下りしと云々。是は四日五日の大変を告る書状也。仍之
金助并梅原おあやどの津の中条(瀬兵衛、江戸醬油問屋)本
家にて立寄飯くひし事に付、伝言言たるに大に喜び書状と
伝言と同じと云々。見世は表を仮家とし、家内は裏にかり
やしつらひて住居す。蔵は破たれど倒るゝにいたらず云々。
大坂へ書状六日限にて出さんとて京屋飛脚や也へいふに、
未だ六日八日限等飛脚は通行なし。只幸便にて遣すなれば
十四五日はかゝるべし、又大坂より下る荷のことを尋るに
夫は当年一杯ならでは通行あるまじといふ。但し登り荷少々
地震にて火にあけ候へども、下り荷に怪我はなしと飛脚屋
のしらべ明白なり云々。是にて東海道のさまおもひやるべし。
十一日晴静、朝大に寒厚氷はる。
甲州の事 又語言、甲州より出役来る三四日前帰る。其人
の言に甲府の御城は大破の所もありながら先づ無事也。町
家は蔵と云蔵に壱つとして不倒はなし、火事はいさゝか
一町計は焼たり。市中皆十八日迄仮屋住居と云々。身延山
も御堂は無事、山々谿々は散々にくづれ落たり云々。
十二日晴。昨夜小井戸主人(江橋氏)沼森相模ぬし(高橋氏)
来会一泊、わだや船来る。江戸山崎黒川山城屋等より地震
の始末色々申来る。尚又今朝大坂小嶋屋十一月七日出書状
委細申来る。四日五日地震津浪の始末くわしく承知いたし
候。
廿日朝微雨後曇。
大坂書状 十一月七日出大坂(今橋貳丁目)小嶋屋状是は江
戸へ来る状也、土浦へ来るは先日届(注)く。急ぎ認参せ候。京都よ
り書状参り、廿八日御立のよし御きげんよく江戸着に被成候半と奉存候。道中地震いかゞと一入あんじ入申候。
当地の事定めし評判も高く候はんと存候。夏より少々かろ
きよう存居候。夏の通に近所と一所に鴻池の門へ畳を引屛
風にてかこひ二ばんとまり申候。もはや今日は朝から二度
ほどになり候故内にふし申候。最早安心に御座候。土浦へ
も地震のこと手紙出し申候。安治川道頓堀は大騒動に御座
候。絵図上申候、御らん可被下候。跡より又々可申上
候間あら〳〵申上候。
(注)十一月七日大坂小嶋屋認書状
十二月十二日土浦着 『草乃片葉』三十三
当月四日朝五ツ過時地震格別の事無之候へども端々
少々崩家も御座候様子、又々五日申刻許已前よりは
少々強く是又下宅近辺は一向障りも無御座、広嶋
辺西海岸辺少々痛所出来申候由、乍併是はさして
人々損も無御座候。市中の人々又々強く震出しも
可致危踏申候て、中分は屋形船に其余は瀬取運送
船等借り川中に乗出し居候人々も不少、然る所暮
合頃沖より巨浪大汐涌上り木津川口安治川口両方へ
別れ、沖合に繫置候大船幾つともなく波に乗て一所
に集り押寄来り、又川筋に有之新造或は修理船數
百艘もともに浮び加って大浪と共に推登るまゝに、
木津川筋は道頓堀へ別れ入、此堀の両側に有之材
木かけ出し屋造り垣川岸石垣悉船と船とにおしくづ
され、矢を射るごとく推上る舟どもに市中に用意し
たる小船ども此船々に敷れ微塵にくだかれ、船も人
も助るいとまなく死亡人尤数多し。船は互ひにおし
詰れ、いやが上に層りて小船は大船の下になりて摧か
れ、是が為に道頓堀川すじにて四橋、其外安治川橋亀
井橋堀江長堀ともに三橋落、即時に泥海と成る。川中
道頓堀にて大黒橋にて留る死人怪我人損船數しらず、
未曽有の大変に御座候。下宅儀は夫迠は所も遠く一向
地震も手軽候故安心無事に御座候。定大変成噂取々に
御座候半、しかし親類中迄人は勿論家蔵とも損候方も
無之、乍憚此段御安心可被下候、絵図うり出し申
候、一枚さし上申候云々
十一月七日
廿一日朝霧後雲しぐれ、いぬゐ風はげしく八ツ時より晴、
風つよし終夜に及ぶ。朝七ツ時過地震。
大坂御城シャチホコ落地 ○又言、先月下旬大坂御城のシャ
チホコ風なくして落地と云々。大坂の怪七八度に及ぶ云々。
按るに四五日の地震にいたみて其故地に落たるものとおぼ

廿五日朝曇、昼より晴雲多し。
豊後国舟(府内)井地震 松平左衛門尉殿豊後国舟井御手廻頭仲平
殿手先のもの参り語言、侯城下豊後国舟(府内)井の城悉ゆり崩し
たる上、家中三軒ならでは無事の家なし。尤大変と云々。
壱岐対嶋は少々地震ゆるしと云々。実に此度の地震は一天
下悉く震候事前未聞ためしなき事なるべし。
(安政二年正月)
廿一日晴暖気夜に入り濛霧深し、子刻地震。
十二日風雨、夜の間より八ツ時地震也。大也。川泡立云々。
風巽方にかたむき弥暴ならんとす。初北後東、夜に入おだ
しくなる。尚雨は不休、凡て終日終夜の雨如何計といふ
かぎりもなし。夜に入遠雷光あり。跡にてきく下総沼森
(結城郡八千代町沼森)辺大雷と云々。
十六日晴冷、朝五ツ時地震、朝艮風後西南風夕刻曇、今日
も鯉のさわぎあり。(注、十五日鯉多く捕る)
大晦日又当卯正月五日中国四国地震の事 書中云、大晦日
正月五日紀州中国辺余程の地震、土佐国は殊に甚しく土佐
侯急に御いとまに成候よし也。扨々希有の事也。扨は当月
十二日八ツ頃の地震抔も国に寄甚しき処も有しか、如何な
れば如此度々の地震可恐可恐。
去十一月の地震の事、駿河国近所に小林村といふあり、家
七軒悉ゆり込む。又同所辺にて親船をゆり込してほ柱のみ
見ゆるあり。千ば(葉)の近江屋仁兵衛方にある金蔵といへるが
姉も人の家のひさしの下にて死す云々。
九州地震 久米氏(幹文)書簡持参の水戸藩中の下士いふ、
昨年地震の節水戸公より大船の帆のひながたとりに長崎へ
遣され候ものども、九州にて地震に逢て大に難儀したりと
云々。彼地もつよかりし、思ひやるべしと云々。
十七日冷風雨明け七ツ時地震。
(三月)
十二日曇折々小雨。
○或言、勢州辺は此節も天気だに曇れば地震す云々。○又
市東海道より帰り来言、今も折々地震す。或宿にて正月中
も五十軒ほど潰るゝ。又正月下旬雨しば〳〵ふりてサツタ
峠の上の山の崩れて道路ふさがる。土とりのくるに二日三
日かゝる、其間道とまる。正月下旬の事也。
(四月廿六日)
大坂死亡人 おもひ出るまゝに記す。去年地震の節大坂津
なみにて死失の人別四百余人のよし、書上げの数に明白也
草片葉に載する(1)也。しかれども其実は死亡のもの貳千余人も
有べしと云り。そは他所より大坂へ入込みしものは処の人
別ならねば尚それらをかぞへ入ていと多き事なりと人のい
へれど、他所より大坂へ入こみしものゝ土地のものに幾倍
すといふほどの事は無事なれば、此言も皆がらは信用なら
ず。しかれども実に死亡人多かりしは実説なり。かき上げ
の数は町奉行より上るに可成丈は其数を少にせんとて、
彼所の忰此所の少女と見えぬがありてもさるは何方より出
るもしらず、唯此死骸は誰々と恬に知らるゝものゝみを、
改め記して四百余人とはせしや、と人の語れるは、実にし
かあるべきさまとおしはかるゝ。二三千人がほど人は死し
たりとも、たしか誰々としらるゝはさばかりの事なるべく
ぞおもはるゝ也。さればこは人の伝えいふが実にて確に記
したるものは却って実に違るなりけり。まれ〳〵はかるゝ
こともある也。
(1)『草乃片葉』巻三十二に収録
(補注)
25 色川美年『家事記』二十五 安政元年十一月条
四日晴 四時比大地震無比類。家内不残裏へ出る。打
続き三度程に成、時刻やゝ久敷立くらみ致し事計なき事也。
此時西南の方に当りて大なる震動皆人聞たり。上の中蔵下
ゲは此地震につぶれたり。是迄此辺にはかよふの地震なし
と老人皆々話。
27 美年『家事記』二十五
十八日今暁七時四分寒入 昨日近小(江戸薬種問屋近江屋小
兵衛)茂兵衛殿着、今日滞留(中略)昨夜大地震有之候
由の雑説専にて、世上市中大に騒敷、家内荷物抔片付候様
子、近小に聞ば江戸にても来十八日地震有之と申評判天
文方よりか申出候由、当地は御屋敷より聞及候趣、多分江
戸より御家中へ申来候やと被存候、手前は非常の手当に
見世の者夜半代りに夜番為致候、尤何の事も無之相済。
28 美年『家事記』二十五
廿一日晴 治助先日より滞留今日宍塚へ帰る、未病気不
宜。西国中国四国とも大地震四日五日の大変追々相分る。
所々津浪別て伊豆下田阿波徳しま死亡の人数不知、風聞
にヲロシヤ舟は地震を前知候や一日前に沖へ退候事凡一里
計、下田は両度の津浪にて人家九分通りも流失、公儀より
異船一条に付出張の人数もけが多しといふ。乍去ヲロシ
ヤ舟は何の事もなく沖に懸るといふ。是いかなる事ぞや、
弘安のためしをおもへば異船こそ推破と申も余りある事に
て、ことしいかなるまがつびの神のあれびにて咎なき国民
をなやまし給ふや。江戸は土浦よりも少し強き方、此度出
来の御台場も余程崩れたりといふ。古今無比類日本国中
の大地震なるべし。関東八州奥羽二州計さしたる崩処も
不聞、誠に大変極れり委敷は別書に知べ
し、あなかしこ。
(因みに、美年の編になる『安政二年乙卯十月七日大地
震見聞録』一巻、川越市色川徳治氏所蔵あり。)
29 日長英連書簡 霜月十五日付 『草乃片葉』三十二
嘉永七在歳甲寅十一月四日又五日大坂地震事
英連事は四日四時頃和州飛鳥太神宮の社に在て、将に神主
の家に問んとて道路に立てり。于時震動して人騒ぎ奔走
すれども、天地の変なれば往て免る所も無と思ひ定たり。
前日に神武天皇の山陵天香山の荒たるを見て自ら甚だ憤怒
したりしが、是皆天地も同様に立腹の事か又は国魂の病震
か。天下一同太平の虫北霊地を噉ふとなりて悉く鑿て年貢
を運び、能貪て其至る所は何れかも。抑天皇の御陵は孰が
先祖なるや。天子は是勿論且将軍家及び末々皇別の姓氏皆
其胤にして、今時の貴人敢て己が祖霊の恩を失て元を固め
ず、唯栄葉の末に盛也。若し斯余が身に大禄有らば買ても
取らん、位階有らば咎めせんに、微軀の恨み是れなれば天
地も震ふに何をか怒り其心をか動かすべくなれば、即我身
與天神地祇同魂ならん。世人皆死すとも余一人は雲に乗
ても飛せ玉へと祈り思ふ間もなく、一時の震を鎮りたり。
其日昼食より出立、天香山を拜し四所祝言し、今井宿に帰
り寒風を防ぎ酒店に飲んと酒の温を乞ひ肴を調へたべよと
盆を引寄せ一盃酌で手に持つ処に、復地震して家人悉くに
迯去り内に入らず奔走する事也。然れども敢て盃を置かず、
地震我を害せず驚事は勿れと、酔心よく飲んで狂言などを
唱つゝ飲終る間に震止み鎮たり。夫れより宿門を出て見れ
ば、路傍に屛風襖等にて迯て居所を拵、甚だ騒々しく、今
井より一里高田と申処に一宿を乞ひ候えども、今日は御宿
は仕らずと云り。予強て曰く余を泊せ玉ば地震も家を害せ
ず何卒ぞと申せども信仰せず。拠なく夫より五十丁来て竹
ノ内と申処に帰り、桝屋某と申方にて宿を乞へば、是は地
震の事にはあらで、御一人様の御宿は御断と云ふ。於是
立腹せずんばあるべからず。扨聞け是大和本街道にて一人
を留んとは。我は宮家の家来にて山陵御改の御内用あり、
京都の御用に差支せる地頭ならば領差上呉ん、甚だ聞へず
役人呼よと怒りたり。左様ならば御宿仕べしとて、斯に酒
狂の一計大当り、内に入て聞合候えば高田辺にては十軒計
潰れ、当所無難と云ふ。其夜中少々船心しても静。翌日宿
気の毒に存候御倶はなぜ御連なされずと云から、我は貧乏
なりと云ひたり。人これ笑ふ。夫より平野と云辺十軒潰れ、
天王寺清水の台潰れ、八時に大坂に着。七時より又一震、
大に騒て人奔走し彼是と云内に鎮たり。河原翁(河原柳翁)
の留主に参り見まひ申候えば、市中に出て町家一同に宿を
結び屛風住居したり。又々夜中一震、凡六時過と思ふ頃に
南方より走り来て飛入りて曰、長堀の水二尺五六も高くな
りたり、逆流して行く事淀川より強く、是の故に短笥長持
等上へ向て流れ来り申に付、伊丹屋御家内迯げ来られ、お
頼申と云ふ。あとより老父来て話には、大塩騒動より甚く、
或は火事或は震ひ、如何に鎮めても人より人が騒ぐ故に聞
れずと云ひつゝ少震にて明け、翌朝人々の流言に四万人死
たりと云ひ或八万人死たりと云ひ、婦人倶に恐て抱合ひ額
を打て腫たるもあり、母が乳児を抱き絞て死たるを知らぬ
もあり。船に迯て往て死たるも夥敷由に付、拙子七日に道
頓堀に往て堀江迄見下り候処、凡そ推量するに其変は余程
の事にて、兼て楽土の故却て自ら死する者多し。紀州沖よ
り潮込み木津川口より衝き船を道頓堀に推入、其衝き送り
橋五ツ共に橋柱も敷込みて船は橋上を飛び越へ候も有る由、
大は千五百石積四五百石六七百石位は全体を持、其外小船
は摧てたゝみ込み候。其大船に上りたる人の云ふ、北船は
難波橋に居候に、すはと云ふ間もなく北の堀に来りたり、
水の上を来たか何も知らずと云て咄し居たり。合点行ぬ有
様也。或は曰く船空中を舞々て来りたりなど云ふ説もあり。
人は家にも上らず。五尺計りの水高なり。其船の込み入た
る事、重て乗りたる様に成りあるもあり、小船は大船の敷
になり、乗居た人は頭が切れ身二つに成りたる、或は子を
懐て離さぬも有り。九日迄に二千五六百出て申し、其外に
流れ失せ候分は人別改ずば知れず。亦人別無き旅客もある
べし。御奉行の出張にて船を引共中々動かず。大船二三十
も小堀に居込み、扨々奇怪也。伊勢皇太神宮の御祓箱を積
みたる船あり、其荷物舟共全く損せず。家の上を越て往ず
ば往れぬ所に飛び陸地に居り候。理において有まじき竒怪
の事也。又は木津中安倍川死人等は川深く故に急には知れ
ず。死人の多き所以の者は地震を恐れて必ず舟に出でゝ家
崩の害を免ん為めなり。且つ動震ふの愁を迯て川辺の人々
は皆船へ出る。又橋向の橋を渡りて乗場に往んとする。則
(すみやか)に逆水衝来て船橋を傷る故に、橋上者水中に陥り小舟に乗
たる者舟をくだかれて溺れる夥しく、是の故に死する者多
し。或は小児の死骸は頭巾着て浮たる有り、美婦の死骸を
♠土より画き出すも有り、是は大市中の富家地震の危を避
んとして安治川に往て船を借り乗りたる者共也。或は親夫
婦を先に遣り子夫婦は後より往くに、既に溺て死たりと云
て驚き泣くも有り。妻子を棄て亭主一人は家を守り居て残
らず死て、一人生て葬式を五輿も出すもあり。亦幸有るは
三歳の児いなみ泣て乗らず、是故に刻に後て乗りあへぬ間
に佛波を免れ家路に奔るもあり。扨々大坂の愚人共金に酔
て安楽を常とす、是の故に危地に往て死す。是即奸智より
積たる狼狽なれば全殃斯に来る者か可知也。尼カ崎は家
百十軒崩れ候由、人も少々損じ候えども昼の事故に数なく、
堺も大坂の順合と承り、京都に至て軽く候得ども御所司禁
裏を御固に候由、志州鳥羽大地震にて城崩れ候処へ佛波来、
君侯の死骸も知れずなり。是は大坂角力者往て角力中より
迯て帰りたりと咄居申候、江州彦根も城半崩の由、播備芸
防長四国及九州も荒れ信州も荒れ、東街勢州四日市桑名、
尾州宮三州新井駿河原宿迄は宿々多く荒候由聞へ申候、江
戸並御地は如何にて候哉。於是世人を考えるに、太平極
れば人心固着して草木を噉ふ虫の如く、假令文学の士たり
とも皆形稽古のみとなり神魂呼吸の活物を失ひて唯文物を
脩るのみ。今天地一震して此諸虫を振ひ祓も中臣祓の一字
か又は神明の瘧病か、憑陋の論ずるにも恐れ有りと雖も、
儒輩は神明を無する事徂来太宰兼ての言、且本居などの国
学者も神道てふ者は無くと釈し、曲事は曲日の有るべく筋
に言て、直日の御魂に曲日を専とす。是故に拙子が如き朝
日の神拜をするをば世学の財子これを愚弃(弄カ)せり。専貪福の
祈にも非ず。人は拙子が神拜を誹る、余は世学の拜せざる
を誹る。夫上古の神聖は今世の浮薄者の心を以て推し難き
者有らん。是故に勤労の精心を神魂の活々たるに拜感する
の務也。然るに此四日飛鳥に居て早朝より神拜する事の長
かりけん、終りて河原翁の前に出れば乃曰、貴公は何をか
拜す、神州大中臣の道は拍手は平手に尽たる者なりとなん。
弊生曰く、神武天皇自ら高皇産霊尊を祭り玉ひ、崇神天皇
自沐浴斎戒潔浄殿内而祈之玉ひ、垂仁天皇惟叡作聖欽
明聰達深執謙損志懐沖退綢繆機衝礼祭神祇剋己勤躬
曰慎一日是以人民富足天下太平也と云ふ。景行天皇祈之曰
く朕得威土蜘蛛者将蹶茲石如柏葉而挙焉、因蹶之即如
柏上於大虚、故号其石曰蹈石也、是時に禱神則志我
神直入物部神直入中臣神三神矣。仲哀天皇は反之、而神
功皇后は能く誓神明。是即御手許に有る日本紀御開き玉
ひて御覧あるべし。皇誉田天皇後の天皇は多儒佛臭の傅風
なり。是故に天香山并天皇の諸陵も于茲に至れり。弊生
は日慎て上は神代より姓氏相ひ受け来る所の先祖の霊号を
拜す。中世佛氏に号せられたれば法号も唱に心なし。唯孝
心其霊にあり、此身を賜ひ此の妙を賜ふの恩を拜で命を神
明に帰し、自力を以て敢て心とせず。先生何ぞ是を息めよ
などゝは。必ず決て息めずとて、耳聾の翁と論ずる事故に
声高くなりて左右色を失ふたり。其後四時頃より地震して
大に震動すれば河原翁は色青くなりて曰く、余は地震嫌ひ
なりとなん。扨孰か地震もあるまじき、是は翁は早朝より
茶を煎ずる故暇あらずして神は二つの拍手を打捨て置也。
弊生は神を拜する故暇なくして、翁の呉れん思ふ茶を飲ま
ず。是の故に立腹ならんと思ひき。然るに地震の驚に翁の
色青くなりたる茶の色を感ずる者ならん、弊生が魂の変転
せざるは神明の感ずる者あらんと思でつゝ曰く、先生驚く
事勿れ、爰は飛鳥太神宮の社頭也、危うき時は暫く迯て社
頭に在るべしと云へば、躬をうなづきて得心せり。復浪華
に西山某と云て、常に弊生が神拜を笑ふ者あり。此地震に
恐れて家内一同御霊の宮に迯往たり。復関谷某と云浄土真
宗の有難やあり、往て其安危を問ひ見れば、兼て云ふ安心
決定弥陀の救ひと拜すれどもさすがに捨る命は惜き者と見
えて、其の家人の騒動大方ならず。復佐々木快雪と云ふ者
は盲人にて針療を業とす。此人は備前の藩中にて素は我慢
なりしが近頃目を亡ひしより神明を能く信て家業追々盛な
り。弊生勧て前頃より出雲大社の出張所に詣でしめ其神徳
を解き聞かせたり。其後住吉の大神に連れ参りて日参を始
めたりし。此度の地震にも家内に難も無く、神明に御救ひ
を祈て玄関にて危を窺ひ敢て騒動もせず。復秋田隆と云ふ
本道医あり、是は弊生の懇意にて能く神明の道を尊み、余
が言を聞て拜礼日々に怠らず。或は寒中に水を蒙り拜する
抔も勤たりし者なり。此度地震に往て安危を問ひ見れば、
短刀を帯し大を脇に置て家内の安危を指揮して玄関に待た
り。棚の物なども落ずして騒動なし。復鴻池嘉十郎と云ふ
内など兼て鴻池は無慈悲強欲なり、鴻池新田に此弟支配す
るに地震に大雷と云へり。此家は土蔵崩れたり。尤も古か
りなん。復或人は地震佛波の騒動に八歳の児を失ひ往方知
れず、多く溺死と定めたりし翌日門向に帰り立てり。親是
を見て幽霊ならんと手をも出し敢めるに、小児是を見て泣
たり。追々夢のさめたる心持にて内え入れて問へば、知ら
ぬ人が連れ帰り御膳など賜させて後に暖くして呉れ、門迄
連て来て呉たりと云ふ。親歓涙して驚たりと聞ふもあり。
昨十三日佐々木快雪同道して弊生両人住吉の大神に詣でり。
兼て聞伝ふるに大神の神馬其夜見えずと云ひたりし。昔日
天満大神の社内鳴動すると云ふを往て問ば虚説なりし故に、
此神馬の虚実を問んとて馬屋の別当に尋たるに、其夜五頃
に養を付んと来り見れば神馬居らず。扨も役目を如何せん
と思ひつつ明方に往て見れば既に帰厩せり。豆を遣れ共食
せず、大に弱くなりて芒然たり。漸くして煮豆を少づつ賜
べて健になりたりといへり。且里人云ふ佛波の害堺大坂は
少々来れ共住江には少しも上り申さずと云ふ。是を以て見
れば神州の道は神明の拜祭を以て大道とす。拙子は、これ
を勤とする也。此度の佛波に死するもの多し。これ佛波と
名付けたる者は神風の対語表裏の事なれば、彼佛力寂威を
悪むべきためなり。此頃京都嵯峨の宮よりの説とか云へり。
先に亜夷の来たる時に法師一千人祈禱したりしが、其法力
にて帰帆せりと唱へて、今度神功と云ふを造ると云ふ事に
て、武辺に御信仰とかも承り候、扨々春方に香取社などの
御祈にも先例無しとて上洛の人足も滞りたる由を聞しに、
神明の動功を以て息吹放てん神風をば兎角に佛の引息に取
れたるは悪し。其神風の裏かへしにて沸涛の来たるは、宜
く佛波と号すべく思ほるのみ。実に世の末に成れば神路の
山も野と成り行く世なる哉。神功皇后の御代には冬十月己
亥朔辛丑従和珥津発之時飛鹿起風陽候挙浪海中大魚悉
浮挾船則大風順吹帆舶随波不労櫨楫便到新羅時随
船潮浪遠逮国中即知天神地祇悉助歟新羅王於是戦々栗々
厝身無所則集諸人曰新羅之建国以来未嘗聞海水凌
国若天運尽国為海乎是言未訖之間船師満海旌旗耀日鼓
吹起声山川悉振新羅王遙望以為非常之兵将滅己国讋焉
失念乃今醒之曰吾聞東有神国謂日本亦有聖王謂天
皇必其国之神兵也豈可挙兵以拒乎即素旆而自服素組以
面縛封図籍降於王船之前因以叩頭之曰従今以後長與乾
坤伏為飼部以毎年貢男女之調則重盟之曰非東日更
出西且除阿利那礼河返以之逆流及河石昇為星辰而殊闕
春秋之朝忍廃梳鞭之貢天神地祇共討焉。余此事を以て
此の佛波を見れば、則ち実に淀川また逆流するなり。而し
て未だ河石の昇って星辰とならざるのみ。歎哀すべきの末
世なる哉。併し近日傳聞く浦賀とか下田とかにて夷覆溺す
と云ふ。実に左あらば少し膓曲の攣急を緩むに足れり。若
夫れ自国の灾害のみ燃らば実に堪忍び難し。志州鳥羽は大
変、且伊勢の山田松坂神辺白子、土州大荒、阿州徳島は地
震にて出火七分方焼失と申事なり。当地も町々人別損亡昨
日迄に八千余、是にては一万人余も至り申べく、夫に付小
島屋母公金介子両人も朔日伊勢両宮詣て四日頃桑名五日頃
より三州路と存、色々心配仕候。御䦰入候処が志を得たり
云ふ占なれば迯たりと存候。又曰く備前岡山六分通り潰れ、
芸州広嶋矢倉も落ち厳島大潰れ、下関大荒豊前小倉大荒、
此度は世界一統に荒にて、至て静なる京都にて候えば、先
武家の荒也と云つべし。扨々人気の居着て文華浮薄にのみ
なり行きたるにて勇気はなく成、当地の武家皆家にも得入
らず、町家の出入者を頼み置て庭に出居たるもの多し。是
にて死を以て君守るの心無き事を知るべし。少々武芸あり
ても覚悟なき手足の芸は心転動すれば其芸術を遣ふべき霊
妙を失ふ故に用には立まじく、此度の様子にては此上四夷
の害を恐るべしと思ふ事也。皆前表にてと存候。何分にも
国魂を震ひ興し申さずてはならず。神功皇后の高波は異国
に往く、此の高波は天竺辺より神州に来り候か。悪むべく
恐るべし。必ず御油断なく御丹誠希申上候。右荒々書余は
大窪君(大久保要)小嶋屋よりも文通これ有り申すべく御
聞可被成候。先は荒々草々是迄に止筆候 以上
霜月十五日当賀 日長英連拜贈
色川雅兄机下
30 『草乃可幾波』三十三
「以(三中朱書)下学問所在之或藩士書簡」
然ば四五日関西諸州地震津波且火事多く、四国阿の徳嶋土
の高智(知)抔は殊に甚しく御座候由、弊藩抔も余程震候事に御
座候、此間古賀先生古賀謹一郎宿元へ罷越候手紙の写し左
に申上候
下田八百五十六軒
内八百十三軒皆潰
二十五軒半潰
十八軒無事
人数惣〆三千九百七人
内八十五人死亡
余は無事
蛎崎村七十四軒皆潰
死亡はなし
右の通奉行所にて取調べ相成候へ共、此内十八軒と申は裏
屋同様の粗末なる家にて残り候も用立不申、扨又人数も
土地の者計り調に相成候事にて帳外のものは如何程有之
哉不相分、中村為弥旅宿一丁にても既に四十三人死亡有
之、先見渡しの処にては六七百人は無相違死亡仕候事と
被察候、熱海も火を吹出し湯はすっぱり留る。怪我人沢
山の趣に御座候
是は確法(報)にて御座候。関以西の模様は最早外より御聞取と
奉察、不申上候
十一月廿七日
「以(三中朱書)下平田先生」
然先月初地震の事御見舞被下忝奉存候、当地は格別の儀
無之、尤処により倒屋も少しは有之候へ共、拙方抔は少
も別条無之、扨東海道筋大坂及び中国筋、中にも四国の
内阿州抔も甚敷、九州も余程の事に御座候由、其外越前加
賀迄もゆり候由、扨々驚入候次第稀成大変に御座候、乍
去伊勢両宮熱田宮等は至て軽く、少しも御破損等無之、
京都も御同様と承、乍恐御同慶に奉存候、扨又異船も下
田に有之候て大分破損いたし右修復は公辺より御助成被
下候事にて、数万両の御失費と申事に御座候、扨時候は
如仰先相應にて如此なれば来年差たる凶作も有之間敷、
北国筋は雪も沢山に御座候由、旁以安悦の儀に御座候
「同(三中朱書)上菅氏へ来る」
然処東海道筋大震動、浪花中国辺も相響き四国も阿州甚く
土州も余程ゆり、松山辺も余程の事に承候、尤貴君御在所
(菅原長好の郷里は大三嶋)辺もゆり候事は必定に候得共、格
別の儀は無之様子、御気遣無之様に奉存候、水藩豊田
彦次郎と申仁(豊田天功)博学の人に御座候由、故鈴屋大
人の御書は不及申、先人(平田篤胤)著書をも称美被致
候由、右に付常州へ追々弘め被申度由被仰下大慶の儀
に御座候。扨世間の有様は如仰歎息のみ有之様にも御座
候へども、又学事の儀は追々開け行き可申体に御座候。
其内紀藩にて本居氏を江戸へ被為召、別紙の通り云々
被仰渡候由、尾州にも然様の事有之由申候人も有之、
実否聢とは不承候。扨又公辺にて武学校御取立の由にて
左の通被仰出候

御旗本御家人文学之儀ハ寛政之度学問所御取建有之
御制度も相備候得共、講武場ハ一ケ所も御取建無之、
自然御旗本御家人講武之道も相♠ミ且御闕典之儀ニ候、
東西南北へ振分ケ五六ケ所も最寄宜場所へ取立有之、
弓鉄鎗釼之業十分ニ稽古出来候様可被遊候間、場所
取調へ早々可被申聞候事
右御作(事脱)奉行小普請奉行へ打合可申旨御口上有之候
ニ付冩相廻ル云々
十月八日
右の趣故、追々出来に相成可申候。恐悦の事に候
紀州侯被仰出候事
近年度々異船渡来之所当時諸蛮共ニ相開ケ其国ニ不
預外事ニモ追々通暁致し候趣ニモ相聞候ニ付ては、万
一之節皇国古来よりの行勢弁別致し無之候ては不都
合之場合も可有之候ニ付、以来国学をも精々勉強致
し可申事
此度本居弥四郎儀此表江罷越候ニ付、同人江稽古いた
し精々御用候様可心掛候、尤御世話之筋も可有之候
間、相学ひ度面々は其段申出候様
右年寄衆被仰聞候事
「以(三中朱書)下黒川ぬし」
天変地妖一条今以飛脚便り十分ならざる故か西国筋の事は
分明に無之候、大阪は死亡人四千人抔申事に候、隈(熊)本城
も大破と申候、如何。又いつく嶋長崎とも申候。久能御宮
御無事、御供所のみ破壊と申候、伊勢熱田御社等尤御無難
と申事、いづれも難有事に御座候
「以(三中朱書)下橘元輔冬照ぬし松浦侯に仕」
先日(月カ)四日の地震別条も無之御同慶に奉存候。九州の内筑
後久留米などは五日に厳敷震候よし、平戸辺も同様、四国
の内伊豫大州は至て厳敷様に申来候。信州善光寺辺は四日
八ツ時に御座候よし、越前福井は四日五日の大地震にて人
家も少々相損候よし、唯々東海道并大坂抔ハ打浪大夫の事
に御座候よしに承候云々
十二月二日
「以(三中朱書)下山崎知雄ぬし」
去月四日の大変御地などは格別の大震も無之由一段の儀
奉存候。当府迚も同様の儀に候へども御地よりは少しは
強き様子にて、大城も少々損所有之由、日比谷御門余程
損じ、桜田辺諸侯の邸の内にも南部家大損鍋嶋柳沢など其
外彼是損所有之、最初は豆駿遠等の国々と承り候所、追々
と風聞増長いたし四国九国の果々迄も大震激浪の災有之、
人民の損害数千万の由誠に歎息とも恐怖とも可申様無之
次第、同時に日光山なども大震動の由、聞毎に戦慄の至実
に此上の義数ならぬ身にも大患の儀とおそろしくも存じ罷
在候。此節承候へば松前なども津浪の由、誠に開闢以来かゝ
る珍事は和漢に例なき事と存候。且東海へ夷船も相見え候
由一々恐戄の儀、又先月十四日の夜天変の趣被仰聞、此
儀当地には格別噂も不承候。唯小子親しく見請候は十一
月廿一日夜六ツ時過大流星に御座候。是も一の天変と可
申奉存候、先便も申上候年号改元弥以今日御発しの由、
何卒年の名とはせ候迄の事にて相済、来年より平穏にいた
し度是のみ祈事に御座候云々
出典 新収日本地震史料 続補遺 別巻
ページ 426
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 茨城
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