[未校訂](善光寺大地震)
善光寺大地震之事
岡崎宿ニテ承り候聞書
一三月廿四日之夜四ツ頃善光寺近辺山鳴水出大地震五里四
方計りも家居崩レ出火となり被打殺被焼殺又ハ水ニ溺レ
死セシ者何千人と申数しれすとのはなしニ御座候
一岡崎宿ゟ廿人あまりも参詣いたし居弥(カ)死□相分り候も
の七八人有連レ之内も分り不申ものも今日迄ハ有之よし
一右同宿ニて古手屋忠蔵と申者親子三人参り父親廿四日や
ど屋ゟトガクシ江参詣ニ参り暮迄かへらず母親ハ夫の帰
り候上本堂へこもらんといふ内夫も帰り暫クはなしの内
ニ大地震家たおれ三人とも家の下ニなり父親ハ家抔を崩
シよふ〳〵出なお立帰り娘をたすけ出し其身ハ材木の下
ニ手を敷取り不得苦むうち火焼出両親とも被焼殺たすけ
られし十二才の娘ハ生残り娘壱人今日九つ頃岡崎へ帰り
候よし
一同所裏町のもの夫婦家の下ニなり男ハ家を崩し出妻ハ材
木或ハ板の下ニ被敷甚苦ミ夫妻をたすけんとなせど材木
取退出来兼妻の声をあけ苦ミ歎ク声ニ絶へ兼此侭長ク苦
しめんより早ク打殺スニしかずと脇ナル木を取りて打し
が当りあしくなお〳〵苦しむうち火十分ニ焼出其侭妻ハ
焼被殺候と今夕帰りて咄候よし
一子を失ひ親計り帰り姉を失ひ妹ばかり今夕帰り候もの共
両三人有之よし
一本堂へこもり居候ものハ一人も別条無之よし
一本堂ト山門此二ケ所別条なし外家つぶれ又ハ焼ケ候よし
一死候もの尾張領之もの七分通ハ可有之との咄三千人搆(講)な
どいたし連立参候よし
一大門前藤屋と申旅篭屋へ七百人ばかり泊り居此家内のも
のハ皆死候様子との噂
一丹波川山崩レセきとめられ水なしとなりなお脇ニ流レ出
二三ケ村水びたりニて溺死なと有之候様子との咄此外新
規に川出来いたし候との事
一善光寺門ゟ内は公領門ゟ外ハ松代領のよし
一本堂三拾間四面も可有之よし
一正面ニ本田吉(善)光父子の像あって横ニ如来の像あるよし
但如来の高サ一寸八分
毎日日の出ニ開帳其節ハ数多之坊主出て経を読むよし
一猿沢の池ニ沈シ如来ハ本田吉光たすけて杵の上ニおきし
ゆへに今杵の上ニ如来の像有之よし
一岡崎宿ゟ善光寺迄行程七十五里
一赤坂宿ニて並ひ居候
野田屋ゟ夫婦
武蔵屋ゟ夫婦
隣の娘壱人
供男 壱人
都合五人連レ参り皆死ニ供の男壱人生残り昨日帰り候よ
し
一白須賀宿よりも廿人ばかり参り居死候と申便りハ一人も
無之少々怪我いたし候もの一人有之よし今日知セ参り候
外ハ不相分いづれニ今晩明日迄ニハ段々と帰り候半との
咄
一荒井橋本と申所ゟ五人連レ参り三人鴨居落候ニ当り死ス
二人生残り候よし
四月三日
(私在所信州松代大地震)
(注、すべて既出あり、省略)