[未校訂]弘化四年(一八四七年)三月廿四日夜五ツ半(午後九時)
苗木の城山も崩れるかと思う程の大地震があった。悪い予
感におそわれながら友禄はじめ家臣達は、明日の参勤交替
への旅支度で忙がしかった。明くれば翌廿五日、春霞の棚
引く木曽川の上地渡しも事なく過ぎて、泊りを重ねて廿七
日諏訪の宿に泊り、夕食の一と時、宿の亭主からの話によっ
て善光寺の震災を聞及んだ。
時あたかも三月十日から四日晦日まで善光寺如来のお開
帳があって、諸国から多数の信徒が集っていたこととて、
地震がにわかに起こると共に寺も家もゆれ倒れて、四方か
ら火事がおき、賑かな善光寺の町は一瞬にして阿鼻叫喚の
生地獄と化して灰となり、死者の数はこれに幾倍し、亀裂、
地割の間に落ちこんで落命する者も多かった。
善光寺の三里程手前の宿稲荷山宿は一軒残らず潰れ埋れ
て死人は数知れず、岩倉山(虚空蔵山)は山崩れして犀川
をせきとめたので、川下は干上ってわらじばきで歩ける様
になってしまった。せき止められた水は大湖水となり、堤
防を破ったため川中島一円は大洪水となり松代領、上田領
の潰家一万死者三千人となった。友禄はじめ一同は先行不
安の心で旅を重ねて、四月二日無事江戸屋敷へ着いたが、
幕府は先年八月天皇の勅命によって海防を厳重にせよとの
下命をうけ、浦賀、千駄崎、猿島等に砲台を築造するため
大わらわになっていた。