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項目 内容
ID J2500213
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信・上越〕
書名 〔苗木藩終末記〕○岐阜県中津川市東山道彦著S55・10
本文
[未校訂]弘化四年(一八四七年)三月廿四日夜五ツ半(午後九時)
苗木の城山も崩れるかと思う程の大地震があった。悪い予
感におそわれながら友禄はじめ家臣達は、明日の参勤交替
への旅支度で忙がしかった。明くれば翌廿五日、春霞の棚
引く木曽川の上地渡しも事なく過ぎて、泊りを重ねて廿七
日諏訪の宿に泊り、夕食の一と時、宿の亭主からの話によっ
て善光寺の震災を聞及んだ。
 時あたかも三月十日から四日晦日まで善光寺如来のお開
帳があって、諸国から多数の信徒が集っていたこととて、
地震がにわかに起こると共に寺も家もゆれ倒れて、四方か
ら火事がおき、賑かな善光寺の町は一瞬にして阿鼻叫喚の
生地獄と化して灰となり、死者の数はこれに幾倍し、亀裂、
地割の間に落ちこんで落命する者も多かった。
 善光寺の三里程手前の宿稲荷山宿は一軒残らず潰れ埋れ
て死人は数知れず、岩倉山(虚空蔵山)は山崩れして犀川
をせきとめたので、川下は干上ってわらじばきで歩ける様
になってしまった。せき止められた水は大湖水となり、堤
防を破ったため川中島一円は大洪水となり松代領、上田領
の潰家一万死者三千人となった。友禄はじめ一同は先行不
安の心で旅を重ねて、四月二日無事江戸屋敷へ着いたが、
幕府は先年八月天皇の勅命によって海防を厳重にせよとの
下命をうけ、浦賀、千駄崎、猿島等に砲台を築造するため
大わらわになっていた。
出典 新収日本地震史料 続補遺 別巻
ページ 215
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 岐阜
市区町村 苗木【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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