[未校訂](小網村有来覚書記)
弘化四丁未正月廿二日、伊勢参り当り金壱分計り増参詣す、
三月十三日善光寺え参詣す、金弐分此内四百五十六文本代、
善光寺四朱五百五十弐文路用、善光寺縁起本五札共ニ此時
三月廿四日下向す、此夜大地震信州善光寺辺ニてハ、大々
地震ニて、善光寺門前町不残たをれ、出火ニてもへる、泊
り人やけ死する者数多百人ニて、弐十人ハ助からす、三四
日之火事、地震ハ昼夜共弐十へん・三十へん之数かきりな
し、是も秋に至まてよなよな不止いする也、此廿五日頃よ
り丹波嶋川上之おいて山かこわれ、両方より川之流留る、
此川水大へんニ成切候得は、何程事共しれづ、きミわるく
して、通行相ならす候、善光寺始(如来カ)末ハ堂より東之方え出し
て開帳也、稲荷山まてひしやけつふれ、火なん合人ハ泊人
数多死に、かたわ物かきりなし、此頃我合兄弟之尾州布袋
の村治兵衞申者此時おみ宿泊り、猿かはんはなのふりて見
れハ、行ケすしてもとり、又おみ宿泊り、翌日ハ連も出来
候ゆへ又行、とふとふ参詣いたし帰り候得共、命ハからか
らなり候と言ふ、此辺ニて、松本村ニて彌三郎言物、油屋
忠右衞門と言物と二人連ニて参り、其夜善光寺正しん坊泊
り、油屋ハ下タ泊り、彌三郎ハ二かいに泊り候ゆへ、やけ
死シ候哉かいくれしれず此事聞より弟彌吉殿はせ行候、吟
味すれ共、やけほね計りニて、事不訳なくなく立帰候