[未校訂](注、前出の資料編と重複しない部分のみを掲げる)
宝永の津波犠牲者
檀那寺
草堂寺
普門寺
聖福寺
観福寺
計
男
二八
一
―
―
二九
女
五九
二
二
一
六四
計
八七
三
二
一
九三
(注)各寺過去帳による
追記 「万代記」や「町大帳」には見えないが、「多
屋悌三郎家文書」(いわゆる「田辺諸事控」)に、「一、宝
永五子ノ閏正月廿七日辰上刻地震、去十月ノ□□也、同此
時瀬戸湯ワキ出ル。」という湯崎温泉発達史上看過するこ
とが出来ない記事がある。湯崎温泉が当時「瀬戸湯」と呼
ばれていたことはともかくとして、「同じくこの時瀬戸湯
わき出る」とはどのように解釈すべきであろうか。さきの
「白鳳の地震」及びのちの嘉永七年の地震のとき湯崎温泉
が一時湧出を停止した実例や、『紀伊続風土記』日高郡山
地組竜神村の竜神温泉の項に、「宝永四年十月四日大地震
にて温泉暫絶えたり、明年正月元日より復涌出すといふ。」
とあるから、思うにこの宝永の地震によって竜神温泉の場
合と同様、湯崎温泉も一時湧出を停止し、翌年閏正月に再
び湧出をはじめたことを意味するものであろう。