[未校訂]第五章 地震の現場を訪ねる
地震は日本の特産物といってよいほどほとんど毎日の
ようにこの国のどこかで起きている。アメリカなら詳し
い記事が新聞の紙面を埋めるであろう地震も、日本では
報道されるときは、次のようにごく簡単に片付けられて
しまう。
「三日午後四時に函館で激しい地震が起きたと伝えられ
る。東から西の方向に横揺れがあった」
一八九〇年〔明治二十三年〕から一八九六年〔明治二
十九年〕までの五年間に、激しい地震が三回、火山の爆
発が一回、そして津波が一回あった。一八九六年の八月
三十一日に起きた地震は、その中でも一番の大地震であっ
たが、起きた場所に人家が多くなかったことと、起きた
時間が良かったために人命の損害はそれほど大きくはな
く、死者二百五十人以下、負傷者五百人ないし六百人で
あった。一万戸の家が完全に倒壊し、その二倍もの家が
一部壊れた。震源地は秋田県の山間部で、太平洋と日本
海の[分水嶺|ぶんすいれい]に近く、東京から北へ三〇〇マイル離れた所
である。
その十日後、私は本州の北端に位置する[弘前|ひろさき]を出発し
て地震の現地へ向かった。雨の中を三日間、秋田県の県
庁所在地秋田まで平穏な旅をした。そこは地震の一番ひ
どかった所から三六マイルの地点にあった。秋田県は公
共心と積極性に富むことで知られ、それは良く手入れさ
れた建物や立派な道路によく現れている。県内に入ると、
道路が良くなったことで、すぐわかるのである。秋田市
は清潔で繁栄しているように見えた。その中の士族の居
住地は広々としてよく手入れが行き届いていた。土族の
屋敷は生け垣や大きな二重の門で、すぐそれと区別でき
た。この静かな区域にも商売が少しずつ入り込むように
なり、その先駆けとなったのは、下宿屋と旅館である。
私は、その旅館の一つに年取った士族の経営する非常に
居心地よい宿を見つけた。宿の主人は私をもてなそうと、
あらゆる努力を惜しまず、自分の手で料理したビーフス
テーキや、見事に焼いた魚を夕食に出してくれた。私が
食事をしていると、入り口の襖が開いて、主人が礼儀正
しく廊下に座ってお辞儀をする姿が目に入った。彼の
[挨拶|あいさつ]の言葉は、何もお口に合うものができませんで、こ
んな粗末なお食事しか差し上げられないで大変失礼して
おります、という丁重なものであった。
主人の息子が、ちょうど地震の現地から帰ったばかり
だったので、夕食のあとで、いろいろな情報を得ること
ができた。彼は私の役に立つようにと現場の旅館の主人
や、その他の人にあてた特別な紹介状を書いてくれた。
さらに人力車を雇う手配までしてくれたが、この援助は
大変有難かった。というのはこの地方では通常は人力車
の仕事は非常にうまく運営されていたのが、他のことと
同様に、地震のためにすべてが狂ってしまったのである。
普通は一マイル幾らと定められた金額の回数券を買って
駅に着くたびに、そこまでの金額に相当する券を渡すの
が通例であった。車夫は時々変わり、平均して一時間で
約四マイル走った。しかし、地震が起きてからは道路が
壊れたことを口実に、金額の規制を破って、車夫たちは
通常の二倍もの金額を要求するのであった。しかし、宿
の主人は私のために全部手はずを整えて、駅ごとに支払
うべき金額を書き入れた旅程表を作ってくれた。
一週間ずっと降り続いた雨が上がって、涼しくて、す
がすがしい朝を迎え、私は七時に宿を出発した。私の車
夫は愛想のよい人間で、ガイドの役も同時に務めてくれ
た。横浜に着いたばかりの、ある金持ちのアメリカ人が、
人力車に乗ってしばらく走った後で車を止めて降りると、
車夫を車に乗せ、自分が車を引いて走り出したという話
がある。習慣というものは恐ろしいものである。我々が
ボートに乗って船頭が舟を[漕|こ]いでも別に何とも感じない
のに、[梶棒|かじぼう]の間には馬しか見ないのが我々の習慣である。
船頭が舟を漕ぐのも、車夫が車を引くのも、人力で推進
する点では全く変わりないのに、見慣れない光景は、や
はり心が痛むものなのだ。
私がこんなことを考えているうちに、道は川に沿った
美しい谷間を上っていた。川の両側の傾斜した丘一面[黄|こ]
[金|がね]色の田が作られていた。米を植えた小さな不規則な形
の区画が何段にも重なって谷全体を覆って、その一つ一
つが見事な技術で配置され、米の生育に欠くことのでき
ない水が次から次へと完全に配分されて流れていた。田
の所々に濃緑色の豆の木の草むらが見られた。人家はま
ばらで、遠い丘の麓のあたりに建っていた。時々、道は
昔の国道と一緒になり、何マイルもの間、百年もたった
かと思われる古い松並木の街道を通ることがあった。そ
の松の木の不思議な形は、まるで子供の頃に見た扇や古
い陶器から抜け出したように思われた。しかし、これら
の松の木にはニューイングランドの松の木の大きな魅力
である、あの香気は全く感じられず、油絵に描かれた木
よりも香りがないように思えた。
村の人々は全員が[藍|あい]の栽培に従事しており、道端のい
たる所に、その葉が干してあった。藍はアメリカで普通、
スマートウィードといっている植物によく似ているが、
事実、同品種に属し、その一種である。春先に特別に作
られた苗床に種を[蒔|ま]き、若芽が数インチの高さになると
広い畠へ植え替えられる。それが良く根づくと、一見、
開花前のアメリカンクローバーのように見える。八月の
末頃になると、赤色で香りのない藍の花が咲く。花がま
だ全部開き切らないうちに刈りとって、茎から生えた葉
を摘みとり、[日向|ひなた]で乾かすのである。しばらくすると、
葉の色が暗緑色に変わるが、その頃になると、大きな俵
に詰められて、市場に出すか、または工場へと送られる。
アニリン染料の発明によって藍の産業は、かなり打撃を
受けたが、現在もなおこの地方の生産物の一つである。
藍を詰めた俵を運ぶ荷馬を途中で何度も見かけたが、藍
は今でも一般庶民の着物を染めるときには、必ず使われ
ているのである。
四つ目の村を過ぎた頃から、先日の地震の残した跡が
方々に目立つようになった。道は今まで人家がなかった
ような丘の上へと続いていたので、倒壊した家は見当た
らなかった。しかし、道路には大きな裂け目が何本も走
り、土手は崩れ落ち、橋は壊され、地滑りは無数にあっ
た。
午前一時頃に境という村のこぎれいな宿に到着した。
昼食の用意ができているような様子も見えなかったが、
その宿は非常に清潔で、気持ちが良かった。それで食事
ができるのを持つことにしたが、幸い、大して待たずに
済んだ。食事に出されたのは、火の上で見事に焼いた
[山鱒|やまます]と、鳥の貝殻焼きとご飯であった。西洋の[焜炉|こんろ]つき
卓上鍋が発明されるずっと以前から、秋田では県の名物
として知られる貝殻焼きが同じようなやり方で食事に出
されていたのである。炭を入れた小さな火鉢がアルコー
ルランプの代わりをし、大きな帆立て貝の殻が鍋の役目
をする。貝殻の中には熱い湯がたぎり、鶏肉の細切りが
それと一緒に煮る[若葱|わかねぎ]を添えて皿に盛られている。醬油
と砂糖が味つけのために用意されている。砂糖を調味料
に使うということは、トム・コーウィン〔米オハイオ州
出身の政治家〕が、「お茶に何をお入れしましょうか」
と婦人に聞かれて、「[胡椒|こしよう]と塩をお願いします。でも、
[辛子|からし]はいりませんよ」と答えたのを思い出させた。
昼食が済んで再び人力車に乗ると、誰もがときどき日
本でふと感じることがある、あの夢の中のような天気が
もたらす不思議な魅力を感じるのであった。木の葉をそ
よがす風もなく、静寂を破る物音一つしない。怠けもの
の鳥は鳴くことを忘れ、山の上の白い雲は、まるで寝て
いるようにじっと動かない。私は地震のことも何もかも
すっかり忘れ、車に揺られながら、いつ見始めたのかわ
からないが、このまま覚めないでほしい夢を見ているの
だった。しかし、我々はやっと長い木の橋を渡り、[大曲|おおまがり]
の町へ入ったので、私の夢もそこで終わった。この町で
は全体の一五パーセントの家が何らかの損害を[被|こうむ]り、八
人が死んで、十一人が負傷した。
大きな材木で倒れないように支えをした宿屋で一夜を
過ごした翌日、私は車夫の案内で近くの村を見て回った。
ほとんどの家が完全に倒壊していたが、残っている家は
突っかい棒を支えにして辛うじて立っていた。村人たち
は板張りに、[茣蓙|ご ざ]を敷いた粗末な小屋に住んでおり、最
も年取った婦人から小さい子供に至るまで、壊れた家の
間を何か助かったものはないかと探していた。幸い、病
気の発生はほとんどなかったようだが、地震の後、十日
間も強い雨が降ったために、すべてがかなり悲惨な状況
にあった。
この地方の一番大きい町は六郷で、千百戸の家があり、
人口六千五百五十八人であった。学校の大きな建物の中
に病院ができていて、赤十字の医者と看護婦が[怪我|けが]人の
手当てをしていた。地震が起きたのが午後五時で、働き
手の男女は、離れた[田圃|たんぼ]で働いていたので、残っていて
怪我をしたのは大抵、年寄りか子供であった。そのため、
比較的死傷者が少なかったのである。家を守り、まだ働
けない小さい子供たちの面倒を見るために残っていた老
婆や子供を除いて、家の中はほとんど[空|から]になっていて、
家が倒れたときは、その子守りの人々も大抵は家の外に
いたのである。
[千屋|せんや]の村では激しい上下動の揺れがあって、まるで村
の真下で爆発が起こったかのようなありさまを呈してい
た。そこでは倉庫の床の真ん中が約二フィートほど持ち
上がって壊れ、入り口の重い石の敷居が、まるで菓子を
切ったように一インチの厚みで何箇にも割れていた。家
の下には少なくとも六インチの幅で大きな[亀裂|きれっ]が走って
いた。
約五マイル離れた隣の村は、私の見た限りでは、一番
被害がひどかった。橋という橋は全部壊れ、 一マイルも
の間、路面が沈下して、その上を一フィートの深さで水
が流れていた。そこを渡った車夫の話では、水の底はき
れいな砂だったということである。
高梨の村には秋田県第一の金持ちである池田氏の屋敷
があった。彼は少し前まで貴族院議員であった。アメリ
カではないことであるが、日本では憲法の規定によって
公然と富豪に貴族院の議席が与えられるのである。各県
ごとに上位十五人の多額納税者が一人の議員を選ぶ資格
を与えられた。池田家は五代前の先祖が金持ちとなり、
代が替わるごとにますます資産が増えて、今の池田家の
当主は五里四方、すなわち二八平方マイルの田地を所有
しているといわれる。彼の屋敷は、事務所や納屋、その
他の建物を含めると、まるで小さい村のようだった。池
田氏と、その家族は仮小屋に住んでいたが、大勢の男た
ちが半分壊れた家を解体して[残骸|ざんがい]を整理する作業をして
いた。彼の話では家を襲った地震は完全に上下動でひど
く揺れたので、庭を走り抜けようとして途中で何度も転
ぶ始末であったとのことである。私がアメリカ人だとわ
かって、差し迫った大統領選挙についての情報を知りた
がり、それが日本の経済にどう影響するか、私の意見を
求めた。
今日一日見たと同じような情景の中を二マイルほど行
くと、出発点の大曲の町へ戻った。もし地震の起きる場
所を自由に選べるとすれば、この人口の少ない地方ほど
好適な場所はなかっただろう。もし大都会でこんな地震
が起きたとしたら、ほとんど全滅に近いのではあるまい
か。自然界の変異の中でも、地震は最もすさまじいもの
である。暴風や雷雨は、その接近が予知できるが、地震
はいつ起きるかわからないし、いつ終わるかもわからな
い。地震をよく知っている者ほどそれを怖がる。自然界
のこのような異変に対して、とるべき態度は二通りある。
ただ[一途|いちず]に恐れおののくか、あるいは大して気にせず無
関心でいるかである。日本人は大抵、後者のほうで、彼
らの精神的特徴をよく表している。日本人は何か事にぶ
つかると、よく「仕方がない」(どうすることもできな
い、の意)というが、それは彼らが、このような経験を
経て、その本当の意味がわかっているからである。