[未校訂](注、「新収」第三巻三七四頁上左七行以下に含まれる
ので省略、但末尾の左の文は研究上に役に立つので掲
載する)
この時期の当地の支配は大変入り組んでいるので、当
地の各村が、右の被害書上のどこに含まれるのか、具体
的には分からない。横川組九か村と長走村は設楽長兵衛
川浦附である。安塚・大島方面の和田・細野・行野・大
島の四村も同支配である。ところが当地のうち真光寺村
は、田中八兵衛[真砂|まなご]附、その隣村の谷村は長岡藩、牧野
家の預り所で、松之山郷などと同支配である。このよう
な錯綜状態だが、当地の大部分は、真砂代官所と川浦代
官所に含まれていたと考えてよいだろう。
伝存史料では当地の具体的な被害は分からないが、同
年六月、横川組の杉坪村、大栃山村、上・下柿野村、有
島村、釜淵村、虫川村、小谷島村、横川村では、次のよ
うに注進している。
乍恐書付ヲ以御注進申上候
一、私共村々地震にて山崩、大割れ等之場所、随分
手入仕、植付申候、尤出水、地震にて無之場所ハ
五月廿五日・廿六日、六月三日両度之雨天にて漸々
仕付申候、此後天気打続候ハヽ、仕付荒ニ罷成可
申も難計、迷惑奉存候、且又、村々之内にて幾重ニ
手入仕候ても用水無之、植付不申場所並川欠山崩
等荒地有之村々、委細帳面ニ指上申候以上
寛延四未年六月
横川村他八ケ村(村名略)
川浦
御役所
全体的に史料が乏しいのではっきりしたことはいえな
いが、この地震による当地の被害は比較的軽かったので
はないかと思われる。谷村と真光寺村の年貢割付を見る
限りでは災害のための減免や夫食・種籾拝借等はない。
少なくとも人命にかかわるような損害の出た形跡はない。