[未校訂]宝永元年(一七〇四)四月廿四日 四月十日に地震、同
廿四日夜中地震方々にて潰家御座候。酒屋はこぼし申候。
此地震にて深浦の海底浅く成申候。大間越に而笹森勘解
由左衛門知行所、堰は潰れ鰺ケ沢にて唐津船痛候。
西ノ関ニ而山崩れ、海に入廿五日、廿六日地震五六度宛
有之、日照ニ御座候(とにかくこの年は地震の多かった
年であった)この時、又も能代方面に再び大地震があっ
て被害甚大。前回は震源地が能代方面であったが、今回
は県境中心で大間越にまで拡がった。
即ち、大間越から深浦迄の間に山崩、崖崩が数カ所有り、
一帯の海岸が隆起した。赤石組の被害最も大きく死者数
十人、山崩れの下敷となり、家屋全潰。半潰六十二、堰
二十カ所、田廿五町歩余に達し、その他諸組では大鰐、
田舎館、尾崎、浪岡、藤代、藤崎、赤田、高杉駒越、和
徳、大光寺、横内、飯詰の各組の堤防、田畑の被害が大
きかった。(鳴海日記)