[未校訂]辻内刑部左衛門
この「辻内刑部左衛門」とは一体何者
なのであろうか。こののち、椿新田開
発の主役となって行くのが彼だが、なぞの多い人物の一
人である。明治三十三年に椿村(現八日市場市)の人菅
親和が書いた『椿新田開墾事略』には、「高生村小泉文
蔵旧記」によるとして、次のような話をのせている。
寛文三年十二月六日の大地震により、京都二條城の天
守閣が傾き、幕府はこの改築費として二万五六千両を予
定した。ところが、桑名藩主松平越中守定重が家来の大
工刑部左衛門を強く推挙したので、幕府は戸田左衛門頭、
本多下野守を奉行として、改築工事は刑部左衛門にやら
せることとした。そして二、三ヵ月して工事は完成した
が、費用は四百両余にすぎなかった。そこで幕府は刑部
左衛門の功を賞して金三十枚を与え、また召出して幕府
大工頭として給米百俵を与えることとした。また越中守
定重よりも五人扶持五十俵を受け、桑名藩江戸屋敷の長
屋に住んでいた、というのである。
この話が何によって書かれたものかわからない。ただ、
この話のうちで、寛文三年十二月六日に大地震があり、
二条城が被害を受けたことは事実である。また、この辻
内刑部左衛門についての唯一の確実な史料として、『徳
川実紀』の寛文六年十二月二十六日の項に、次のような
記事を見い出すことができる。
「松平越中守定重が大工、辻内刑部左衛門召出され、
工人の棟梁になさる。」
これをみると、寛文六年に辻内刑部左衛門が幕府に召
し出されて大工棟梁となったことは確かであるが、これ
が寛文三年の二條城修築の功績によるものだとすると、
その間が長すぎる。この間の寛文五年五月にも京都に大
地震があり、二條城の石垣や二の丸殿舎等が破損してい
るのである。また、修築の奉行となったという戸田左衛
門督は実在しないし、本多下野守も明らかでない。しか
し、辻内刑部左衛門が桑名藩主松平定重の家臣であり、
寛文六年に幕府の大工頭となったことだけは確かである。