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項目 内容
ID J2400260
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1630/99/99
和暦 寛永七年
綱文 寛永七年五月(一六三〇)
書名 〔新撰陸奥国誌 第五十五巻〕岸俊武著S41・3・31青森県文化財保護協会
本文
[未校訂]猿ケ森村
 当村昔は小忌濃浦と云ひ小田野沢村は大忌幣本郷にて砂
子東村砂子西村の四村の大忌幣本郷と唱しか城ケ沢蔵人滅
て后今の名に改めしと云ふ里老の伝に村北二十丁大沼平と
云ふ所に昔何の頃にか家数千軒ありしか海嘯の為に頽壊せ
しと云るこの大忌幣と唱しころのことにや詳ならす田名部
の東に当り行程四里十八丁家数十二軒山に依り高き所に住
し東は海まで四丁あり土地瘠せ田畑少し産業は前村に同し
く又昆布をとる東風烈しき年は多く五ケ年平均凡千貫目に
下らすと云ふ南小田野沢村まて二里北尻労村まて二里十八
丁西蒲の沢村まて一里十八丁
支村
下田代 本村の西南の方十三丁山間低き所に住す家数九
軒俚人の口碑にこの辺の曠原民戸千軒ありて頗る
繁花の地なりしか桑田海となる諺にて今は曠蕪と
なり何れを其所と認かたけれとも其名残の池水所々
に存せりと云ふ又其時の鎮守に八幡宮あり天文十
年の建立なりしと云ふ野牛村若宮神社の相殿八幡
宮は明治六年当村より遷せし所なるか彼にては大
同二年の鎮座の由伝れとも疑はし或云天正六年戊
寅六月十五日洪水ありて民戸流失多四千七百三軒尻屋村
は離島となり四民難渋せしかは国主より新田左馬
助赤井七郎等をして救賑し諸在損所を繕ひ新地を
開き漸九年にして復せしか流亡の農民欠損し三千
九百二十軒は国宰にて普請せりと云り斯衰頽せさ
る已前は大利ママ村当村と大利村当村と大畑易国間の
三村と合五ケ村は交易塲大平川内脇の沢の三村は
売船年々入津し安渡田の沢の両村に妓楼ありて繁
昌せしか寛永七年五月同十二年八月両度の洪水に
又々流亡の家多田畑は砂入欠損せしかは救助を国
守に歎きしかとも強訴の趣に響きしにや十二人召
捕られしかは残りの者多分松前に引移り年を逐て
衰徴し村勢今に振興せすと云ふ
小田野沢村
神社
鍵懸神社境内四十五坪本村の中程北半丁計にあり
祭神 豊玉彦命 少名彦命
本社 西向東西二間南北四間茅葺
拝殿 東西四間南北五間本社に続く菅葺
鳥居 二基
狛犬 二頭
石燈 一座
当神社村民鍵懸神社と並へ称す何なる故そと問に当村
近辺に三の小村あり何の頃にか海潮に没し此所に集会
せりこの地は則深山神社の旧地にして鍵懸神社は旧折
戸と云る在に鎮座ありしを遷し今折戸川あり両社を配偶せし
なりと云とも詳ならす
旧菊池繁人か司る所明治六年免せられ白糠村赤岩神社の下に云り中里
甚三祠務となる
出典 新収日本地震史料 続補遺
ページ 52
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 青森
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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