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項目 内容
ID J2400182
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1596/09/05
和暦 文禄五年閏七月十三日
綱文 慶長元年閏七月十三日(一五九六・九・五)〔山城・摂津・和泉〕
書名 〔続古地震―実像と虚像〕萩原尊礼他著H1・3・25 東京大学出版会
本文
[未校訂]新史料〔1〕
安樂壽院新塔棟札
龔惟大日本国雍州路紀伊郡竹田安樂壽院、明同日月、徳合乾坤、鳥羽
法皇、致文武之憂勤、撫毓百姓、成堯舜之仁孝、養恤兆民、剰禀天縦之英姿、而♠撰上賢之才、
兪日新之仁政、而♠副下臣之望、
♠然流化於蛮貊、維貢船於河西之海涯、奮威於夷戎、推宝車於城東之街路、雖道治四海、徳冠百王、早♠九重之
仙洞、♠剃於鬚髪、擲山龍華虫之御服、着禅誦緇皁之法
衣、倐花♠南入竹田里、穫闡於榛荊之蓊鬱、成六坊之檀
那、建一宇
之蘭若、然則皇后亦磨無上菩提之心珠、加新御塔六坊、合成
十二坊了、而求十二因縁之果、開二世安樂之霊場、忌三千威儀之栄、離千歳洪図之紫闕、請聚砂為塔之
功徳、驀地立寶塔、安置於毘盧舎那仏、而祈北闕百千余歳之寿域、
帰敬於阿弥陀如来、而移西方十万億土之浄邦、
彔晨鐘夕盆、罄一心称名之観念、朝梵暮咒、至三業相応之至誠、而坐真如実際之牀、処成等正覚之室、雖然如是逢天
下地震之凶歳、件寶塔一時毀壊、而如築一堆山、堂僧皆
驚愕、㠯降十方雖勧、無半文之奉加、七道曽求、絶一木之資助、造顚抱憂処、於越右大
臣豊臣朝臣秀頼公有再興之鈞命、片桐東市正且元奉旃、
不嗇官廩之禄、賚金銀兮、如抛土塊於钁頭、呂氣公田之豊、運粱粟兮、侶載塵砂於船上、故居諸不幾玉成畢矣、
二仏倘照鑑這殊勲、則大日架智箭、退散於東西洪繊之怨敵、弥陀淬慧剱、降伏於宸海多少之魔軍、復道、
門闌繁栄、僧坊住富貴之宅、郷里悠久、民舎処福祐之源、挙世克始克終、至祝至禱、主君齢算曽、与霄壊
等者也、
慶長十一暦丙午五月吉日 片桐東市正且元(花押)
(裏面)
本願前場半入盛舜
 棟梁藤原朝臣与右衛門慰宗久(花押)
(訓読)
[龔|ツツ]シ[ミ惟ル|オモンミ]ニ大日本国[雍|ヨウ]州路紀伊郡竹田安楽寿院、明ハ
日月ト同(同)ジクシ、徳ハ乾坤ヲ[合|アワ]セル鳥羽法皇、文武ノ憂勤
ヲ致シテ、百姓ヲ[撫毓|ぶいく]シ、堯舜ノ仁孝ヲ成シテ、兆民ヲ養恤ス、
[剰|アマツサ](剩)へ[天|テン]縦ノ英姿ヲ[禀|ウ]ケテ、以(㠯)テ上賢ノ才ヲ撰ビ、日
新ノ仁政ヲ兪シテ、以(㠯)テ下臣ノ望ニ副フ、天(兀兀)然、化
ヲ蛮貊(貊)ニ流シ、貢船ヲ河西ノ海涯ニ[維|ツナ]グ、威ヲ[夷戎|イジュウ]ニ奮ヒ、
宝車ヲ城東ノ街路ニ推ス、道(道)ハ四海(海)ヲ治メ、徳ハ百王
ニ冠スト雖モ、早ク九重ノ仙洞ヲ[♠|ス]テ、[鬚髪|シュハツ]ヲ[♠剃|テイテイ]シ、
山龍華虫ノ御服ヲ擲チ、禅誦[緇|シ]皁(皁)ノ法衣ヲ著シ、
[倐|タチマ]チニ花[雒|ラク](♠)ノ南、竹田ノ里ニ入ル、[榛荊|シンケイ]ノ[蓊鬱|オウウツ]ヲ
[穫闡|クワクセン]シ、六方ノ檀那ト成リ、一宇ノ蘭若ヲ建ツ、然レバ則チ
皇后モ亦無上菩提ノ心珠ヲ磨キ、新ラタニ御塔(塔)六
坊ヲ加へ、合セテ十二坊ト成シ了ンヌ、而シテ十二因縁
ノ果ヲ求メ、二世安楽ノ霊場ヲ開キ、三千威儀ノ栄ヲ[忌|イ]ミ、千歳洪
図ノ紫闕ヲ離ル、請フテ砂ヲ聚メ塔ノ功徳トナシ、[驀地|ばくち]ニ
シテ宝塔ヲ立ツ、毘盧舎那仏ヲ安置シテ、北闕百千余歳ノ寿域
ヲ祈リ、阿弥陀如来ニ帰敬シテ、西方十万億土ノ浄邦ヲ移ス、彔
(録、彝カ) ニ晨ニ鐘シ夕ニ盆シテ、一心称名ノ観念ヲ[罄|ツ]クシ、
朝ニ梵シ暮ニ咒シテ、三業相応ノ至誠ヲ致ス、而シテ真如実際ノ
牀ニ坐シ、[成等正覚|ジョウトウショウカク]ノ室ニ[処|オ]ル、然リト雖モ是ノ如ク天下地
震ノ凶歳ニ逢ヒ、件ノ宝塔一時ニ毀(毀)壊シ、一堆山
ヲ築クガ如シ、堂僧皆驚愕シ、以(♠)降、十方勧ムト雖
モ半文ノ奉加ナク、七道[曽|カサ]ネテ求ムルモ一木ノ資助ヲ絶ツ、造顚
憂ヲ抱ク処、[越|エツ]ノ右大臣豊臣朝臣秀頼公ニ於イテハ再興
ノ鈞命アリ、片桐東市正且元[旃|セン]ヲ奉ズ、官廩ノ禄ヲ[嗇|オシ]マズ、
金銀ヲ[賚|タモ]フコト土塊ヲ[钁|クワク]頭ニ抛ツガ如ク、以(㠯)テ公田ノ豊カナ
ルヲ挙(氣)ゲ、粱粟ヲ運ブコト塵砂ヲ船上ニ載スルニ似(似)タ
リ、故ニ[居諸|キヨシヨ]幾クナラズシテ玉成シ畢レリ、二仏[倘|モ]シ[這|コ]
ノ殊勲ヲ照鑑セバ、則チ大日ノ架セル智箭ハ、東西洪繊ノ怨
敵ヲ退散シ、弥陀ノ淬セル慧剱ハ、宸海多少ノ魔軍ヲ降伏シテ、
道ニ復シ、門[闌|ラン]繁栄シテ、僧坊ハ富貴ノ宅ニ住シ、郷里悠久ニシ
テ、 民舎ハ福祐ノ源ニ処リ、 世ヲ挙ゲテ克始克終、 至祝至禱、 主
君ノ齢算ノ[曽|カサ]ヌルコト霄壌ト等シキナリ、
慶長十一暦丙午五月吉日 片桐東市正且元(花押)
(注解)
○龔―恭と同じ。○雍州路―山城国の異称、雍州は中国
の陜西・甘粛・青海の一部を含む古代の州名。漢唐の時
代に都のあったことから京都周辺の山城国の称とした。
○文武―文王と周の初代武王。○憂勤―たえず心配して
心にかける。○撫毓―撫育、毓は♠、いつくしみ育てる。
○養恤―生活の成り立つように援助する。○天縦―天縦、
天は天の古字、生まれつき。○兪―益に同じ。○♠然―
♠は天の異体字。『遊仙窟』に「張郎才器は乃ち是れ曹
植が天然……」とあり、曹植は曹操の子で文才を称せら
れた。張郎の文才は曹植の天然の才にも劣らぬとの意。
○化―教化。○蛮貊夷戎―蛮は南方の、貊は北方の、夷
は東方の、戎は西方の異民族。○河西の海涯―難破の津。
○宝車―貢物の宝物を積んだ車。○城東ノ街路―京都の
東の逢坂山などを越えて都に入ってくることをいう。○
九重の仙洞ヲ……―鳥羽上皇が永治元年(一一四一)三
月剃髪して法皇となったことをいう。○山龍華虫の御服
―天子の服。山龍華虫は中国古代より天子の正装の服の
模様。○緇皁―墨染の衣。○倐―たちまちに。○花♠―
花洛、花の都、京都の美称。○榛荊ノ……―生い茂った
雑木・茨等を刈り取り土地を切り開き。○六方ノ……―
六坊の後援者となり。○一宇の蘭若―一大伽藍(寺)。
○皇后―美福門院得子、近衛天皇の生母、保元元年(一
一五六)鳥羽法皇の死に際し出家、多宝塔建立は一一四
七年。○十二因縁―人の苦悩の十二の因縁。○果―悟り、
修行の到達点。○三千威儀ノ栄―数多くの威儀を正した
作法にあけくれる宮中。○千歳洪図ノ紫闕―限りない歳
月にわたる国政について計りごとをめぐらしてきた朝廷。
○請ヒテ砂ヲ聚メ……―法華経方便品の「……童子戯れ
て、砂を聚めて仏塔をつくる。かくのごとき諸人等みな
已に仏道をなす」による。○驀地―たちまちに。○北闕
……移ス―毘盧舎那仏・阿弥陀如来の浄土をこの寺に現
出する。○彔―録の異体字、あるいは彝か。○晨ニ……
室ニ処ル―朝夕怠らず修行につとめ、手に印、口に真言、
心に観想し、悟りの境地に至る。○十方……絶ツ―あら
ゆる手をつくしたが、復興のための資金・資材が全く集
まらなかった。○造顚……処ル―造顚は造次顚沛で、わ
ずかの間も塔の復旧を思い悩んで年月を経てきた。○鈞
命―命令の尊称。○旃ヲ奉ズ―旃は曲柄の旗、ここでは
工事の指揮に任ぜられたことをいう。○官廩ノ禄―官費。
○钁頭―おほぐわ(大鍬)の先。○居諸―日月。○二仏
―毘盧舎那仏(大日如来)と阿弥陀如来。○門闌―闌は
「しきり、やらい」の類。○霄壌―天地。
(本史料は『大日本史料第十二編之四』、『城南宮史』に収めて
あるが、解読に各々異あり、原棟札について解注を付した。
山本・翠川文子)
新史料〔2〕
塔島十三重石塔刻文(拓本)(「宇治興聖寺文書第一巻」
同朋舎出版 一九七九年)
此塔草創者、南都西大寺開山興正菩薩、爲宇治橋再興
供養所造立之塔也、于豈(ママ)慶長元年龍集丙申孟秋、
爲大地震九輪忽零落、今也爲烏有、且塔上四重傾
辰巳之間、雖經幾星霜終無修補者、予爲考
妣再建於興聖寺之次、新造九輪亦正石塔之傾
、以證其靈蹤矣
 山背国淀城主従四位信濃守大江姓永井氏尚政
慶安三年庚寅九月念日
出典 新収日本地震史料 続補遺
ページ 36
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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