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項目 内容
ID J2400181
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1596/09/05
和暦 文禄五年閏七月十三日
綱文 慶長元年閏七月十三日(一五九六・九・五)〔山城・摂津・和泉〕
書名 〔アビラ・ヒロン 日本王国記〕「大航海時代叢書Ⅺ」S40・9・13 岩波書店
本文
[未校訂] この都の[市|まち]には、昔から大仏(23)Daybutと呼ぶ仏像があっ
たが、九六年に起こった地震で倒壊したので(24)、太閤様が
もう一つずっと大きいものを作られた。もっとも倒壊し
たものも坐像でいて大きな松の木を越す高さだった。し
かしいまなお存命である太閤の妻、現在では王国を失い、
監禁された者として大坂Uçaca〔M:Vzaca〕城にある
公子秀頼Findeyoriの母(25)が、造るのに三百万(26)の上の費用
がかかったという、途方もない大きな仏像を造られたの
である。これは坐像であるが、二十五ブラサ〔一ブラサ
は一・六七メートル〕を越える高さで、肩の上に男が立っ
て物差を持った手をのばしても、耳のつけ根に届かない。
腹の内部には四人の坊主Bonçosが、めいめい八パルモ
平方の小部屋に住んでいる。あるエスパニャ人が、剣と
短剣を帯びて、この像の鼻の孔からはいったことがある
が、それほどの馬鹿でかいものである(27)。しかしこれはま
だ足場が組んだまま残っていた頃だから、すっかりでき
あがる前のことであった。
(23)秀吉の創建にかかる京都東山の方広寺大仏の
ことで、一五八六(天正十四)年起工して、八九年に
落成し、本尊は六丈三尺の木の大仏で、始めは大仏
殿の称もあった。
(24) 慶長元年閏七月十三日(一五九六年)に近畿地
方に大地震があって、余震が数カ月にわたった。
(25) 淀君(一五六六?―一六一五)、浅井長政の長女
で、秀吉の側室。秀吉の死後秀頼を助けて、地震で
破壊された方広寺の再興に努め、金銅の大仏鋳造中
に焼亡し、一六一〇年に再び工を起こして、一二年
に完成した(渡辺世祐『豊太閤の私的生活』、創元社、一九
四三年、二一〇―二二二ページ。桑田忠親『淀君』、吉川弘文
館、一九五八年、 一二九、一三二ページ)。
(26) 単位は原文にはないが、ドゥカードではある
まいか。当時、一ドゥカードは約一両にあたってい
た。
(27) モレホンによれば、「人が入り得るが、それ
は剣を持たずにである」(イエズス会本、二十裏)。
 九月四日、非常に激しい地震が始まり、幾時間か続い
た。その後弱まったり、強まったりして幾日か続き(6)、こ
うして、強弱の差はあれ、毎日毎夜ゆれ止まなかった。
それは日本全土にわたる地震であった(7)。もっともところ
によって、他の土地より一層はげしく、被害を被るとい
うことはあったが。なぜなら、日向の国では、上浜(8)Hu-
mfamaという一つの町は水びたしになって、人家は跡
形もなくなったばかりか、その後海まで湖ができたので、
そこを船で往来したし、現在も船が往来しているからで
ある。
(6) モレホンによれば、「最初のは七日で二回目
は十四日であった」(イエズス会本、六五裏)。〈原注〉
慶長元年閏七月十三日(一五九六年九月五日)、畿内に
大地震があり、余震が数カ月に亘った(『史料綜覧』
巻十三)。
(7) 「都Miacoから西方のみであって、東方は弱
かった」(モレホン、イエズス会本、六六)。〈原注〉
(8) 「日向の国ではなく豊後Bungoの国であり、
町の呼名もこうではない。海がそこに入ったのは事
実である」(モレホン、イエズス会本、六六)。〈原注〉Hu-
mfamaは本浜ともとれる。補注六五五ページ参照
(土井)。
 都Meacoと上Camiのその周辺の地域では、地震は
ことのほか激しかったので、家屋や城の多くが倒壊した(9)。
完成したばかりの太閤様の大邸宅も倒壊したが、これは
一見に価するものであった。そこには畳Tatamis百枚
敷の広間があった、なかには千畳敷だという者もあるけ
れど、私は疑わしいと思っている(10)。これは接待、饗宴、
それに夜宴に使うものであった。ところで国王は非常な
危険に遭遇したので、人々は彼を死んだものと思ったく
らいであったが、しかし事実は、丈夫な一室にのがれて、
そこの[出窓|バルコン]で奇蹟的に生きのこったのである。ちょっと
噓のように巨大だった大仏Daybutの像も倒れたし、こ
とに都、大坂、伏見、堺、奈良、そのほか名の聞こえた
都市では、まことに奢侈な、豪壮な神殿や寺院の多くが
倒壊した。実に信じられないくらいの荒廃であった。な
ぜなら、何もかもめちゃめちゃになっていたし、人々も
どこへ行ったらよいかも、どこへ避難したらよいかもわ
からないままに、心もそぞろに右往左往して、お互いに
顔を見合せ、家財道具のことなどてんで眼中になく、た
だめいめいが、どうしたらよいか、どこへ行ったら[生命|いのち]
がたもてるよすがが見つかるかが焦眉の問題であったが、
その生命も、たとえば寺院とか、大邸宅とかで起こった
ように、ここなら一番安全に生命が助かると思っていた
場所で、おびただしい人々が、生命を失ったのであった。
また、そういう寺院や大邸宅は、およそひどい損害を受
けたので倒壊したばかりか、何千何百という人々を下敷
きにした。
 それに、さきに挙げた都市は、その中でも特に都は広
さも広大だったし、家々が密集していただけに、損害も
比較を絶して大きかった(11)。そこで、人々は田舎をめざし
て避難して行ったが、ここでも不幸は彼らについてまわっ
た。それというのも、いたるところで地割れがしていた
し、所によると地面がまっ二つに裂けているので、これ
までの道路を通ることはできない有様だったからである。
しかも、驚くべきことは、まだまだこれだけではなかっ
た。それというのも、頂上から下までまっ二つに裂けた
山地の割目に岩がごろごろしていたからである(12)。しかも、
もしもこのことを、権威と真実あまねき、穢れない生活
を送る一人の[修道士|レリヒオーソ]が真実だと保証してくれなかったら、
わたしは、よしんば何千人の日本人がそう話してくれた
ところで、本当にはしなかったであろう。しかしフラン
シスコ会のパードレ・ジェローニモ・デ・ジェズース師
が、あちこちでそれを目撃したし、多くの村落では、地
震のためにできた濠を越えることができないので道が変
わってしまったし、何でも川の水があたかもこね箱に入
れた水を、急激に動かした時のように、はねあがり、盛
りあがって、外へ溢れ出したので、川の近くの道路や家々
に魚がうようよしていたということを、わたくしに保証
してくれたのである。
(9)「伏見Fuximiであって、都Miacoのではな
い」(モレホン、イエズス会本、六六)。〈原注〉「当代記」
にも、「閏七月十二日の夜子の刻に、上方大地震、
京中は三条より下伏見迄家損ジ人死ス。上京は不苦シカラ。
伏見御城中にて、女臈(じょろう)七十三人、仲居
(なかい)下女迄五百人死ス。一の門、三の門の番衆ハ、
門崩レ悉死ス。折節太閤、中のまるに御座、御身無恙。
諸大名の家々倒る。人死ス事無限。大坂々井(堺)
も同ジクル崩。伏見城殿主(でんす)石かけ(垣)は一
も不残崩る。大仏堂は不苦シカラ、仏は損也。愛宕山
(あたごやま)坊中も倒」(「当代記」巻三)とあって、
伏見城崩壊を始め京都の損害を伝えている。
(10) 「この千枚の畳tatamisの部屋、あるいは家
は大坂Ozacaにあって、非常に立派である。それ
が千枚であったこと、および倒壊したことは確実で
ある」(モレホン、イエズス会本、六六)。〈原注〉
(11) 「誇張された誤りである。なぜなら、最初の
夜を除いては、それ以上の家屋や社寺が倒れたこと
はない。最も被害の少なかったのは都Miacoであ
る。多かったのは伏見Fuximi、大坂Ozaca、お
よび堺Sacayで、そこでは最初の夜、大勢の人々
が死んだが、その後は全くなかった」(モレホン、イ
エズス会本、六六裏)。〈原注〉
(12) モレホンはこれを非難して、「誇張である。
倒壊した或るものは裂けたこともあろう。なぜなら
私は、これらの地をことごとく見たからである」(モ
レホン、イエズス会本、六七)。〈原注〉
 太閤様Thayco samaはさきに述べたように、宮殿の
出窓へ逃げ、そこから出て庭園へ行き、その後、誰にも
見とがめられずに、田舎へ行って、一軒の藁屋の中へ身
をひそめたが(13)、そこではかの有名な都市にいるよりもずっ
と安心していることができたので、ここでもし彼に信仰
の光があったとしたら、立派な思索をすることができた
にちがいない。地震は何日も、すっかり止むということ
はなかったけれど、少なくとも二十四時間(14)は続いた地震
が過ぎるやいなや、彼は極めて仲のよい、有力な、さる
[領主|セニョール]の邸へおもむいた。そこでは彼がすでに亡くなった
と思っていたのであるが、他の諸公へ知らせ、こうして
喜びに充ちた諸公の訪問を受けたのであった。
 この出来事で一つの、小さからぬ奇蹟が出現した。そ
れは、あんなにもたくさんの宮殿や寺院や、しっかりし
た邸宅が倒壊したのに、サン・フランシスコの天主堂、
諸パードレの寝ぐら、貧民の病院などが、ちゃんと倒れ
もせず立っていたし、しかも大した損害も受けなかった
ということである(15)。
(13) 「大きな誤りである。なぜなら彼は伏見Fuxi-
miの城から出なかった」(モレホン、イエズス会本、六
七)。〈原注〉
(14) 「せいぜい三時間続いた」(モレホン、イエズス
会本、六七)。〈原注〉
(15) 「大きさや重量の少ないすべての他の家屋や
社寺と同じであった。いわんや震動の少なかった京
都においては当然である」(モレホン、イエズス会本、
六七裏)。聖ペドロ・バウティスタは、日本駐在司教
のために太閤がしつらえた接待について述べたとき
に次のように記している。「さらに充分な準備と威
厳を整えてもう一人の者を迎えるために、大きな建
物と風見の塔を造っていたが、思いもかけないとき
に、神が怒って塔と櫓を地上に倒し給うた。なぜな
らば、夜十二時半に、驚くべき地震が起こって、前
述の損害を与え、国王はもう少しで死ぬところであっ
た。彼の家の者百人が死んだといわれている。都
Meacoその他の都市において、ほかにも多数の家
屋が倒壊して、大勢の人々が死んだ。数多くの偶像
や、坊主Bonzoの家も倒壊した。大騒動ではあっ
たが、私たちの〔教館〕はそのまま残った。われら
の主に栄光あれ。私たちの病院の一つの半分が倒れ
た。私たちや近くのキリシタンは、直ちにその場へ
馳けつけて、気の毒な人々のうちの生きている何人
かと、その半死半生の者、および全く死んだ八、九
人を引出した。死者中、ただ二人のみ異教徒であっ
た。キリシタンは全員、あるいはほとんど全員が、
その二、三日前に告解をしていた。地震が起こって
から、 一カ月以上になるが、今日まで毎日第一回ほ
どではないが、震動が絶えない。第一回目は、私た
ちの上に家が倒れかかるのを恐れて、幾晩か畑に寝
たほどの恐怖を与えた。」(“Carta al P. Francisco de
Montilla en la que le comunica algunos sucesos ocurrid-
os en Japón, Osaka 11 de Octubre de 1596”, A.I.A.,
VI, pp.271-272)。〈原注〉
出典 新収日本地震史料 続補遺
ページ 32
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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