[未校訂]安政大地震の時の冥加銀
地震と冥加銀
江戸時代には商業・工業や漁業・鉱業その
他各種の営業を営んでいる人々は、その営
業を免許され保護を受ける報償として、藩主に金銀や銭米な
どを上納していた。これを冥加といい一種の免許手数料ある
いは営業税的な性格を持ったものであった。しかし、この冥
加は神仏の加護や助けのことを、冥加とか冥利とかいったも
のが後には転じて、その利益に報(むく)いるため奉納する金
銀銭を意味するに至ったものである。
安政二年十月二日四ツ時(午後一〇時ごろ)江戸を中心に大地
震があり、その上各地から火災が起り翌日の朝までに、大き
い震動が三十余回、余震はその後一か月にわたり八十余回も
続き、その被害は一万石以上の武家の死者二千余人、市民の
死者四千六百余人、重軽傷者約二、八〇〇人程で、近接の村々
を合わすと一万人にも及んだという。当時高松の藩主松平頼
胤の江戸藩邸も崩壊したが、この災害の復旧には平年通りの
年貢収入では不足なので、藩では藩士に渡す禄(給米)の十分
の五を借り上げ、平年の給与の半額しか渡さなかった。
ところがその前年の安政元年十一月四日から五日に、関西地
方に大地震があり讃岐でも大被害があった。余震が長い間や
まなかったので、農民は家の近くの山や竹やぶなどに小屋を
作って、十日近くも寝起きしたと伝えられている。当時高松
藩領の被害は、武家屋敷一六九戸、高松市内の商家一、四九
七戸、村々の民家一、二九五戸が損壊したという。藩ではそ
れらの被害者の家の修理材料や米・銭などを支給し、復旧を
はからせた。このようなありさまであったので安政二年の江
戸大地震が国もとへ知れると、讃岐の農商工業者は進んで平
素のご恩に報いる献納銀をしたいという者があった。当時香
川郡東の大庄屋仏生山の別所嘉兵衛、多肥の喜多伝六は、各
村の有力者や庄屋と協議をして、身分相応の冥加銀献上をす
ることとし、郡内三十一か村と仏生山領を廻って集金した。
塩江町の冥加銀
「香川郡東村々此度被仰付候御用金人別
顔割帳」によると塩江町内の冥加銀は次
のようであった。
安原下村
一銀三貫目 三月七日 牢人 上原八郎左衛門
一同二貫百目 三月六日 牢人 上原市太夫
一同八拾目 三月七日 牢人 岸本浅之助
一同百目 三月七日 庄屋 与一郎
一同五拾目 右同日 百姓 磯右衛門
一同六拾目 三月十日 同 次右衛門
一同六拾目 三月十日 同 八太夫
一同六拾目 三月七日 同 八平
一同六拾目 同右 同 弥平太
一同六拾目 同右 同 藤吾郎
一同六拾目 同右 御旗指 専蔵
一同六拾目 同右 百姓 与一右衛門
一同八拾目 三月十日 百姓 平五郎
一同目 右同 同 与右衛門
一同目 右同 同 武兵衛
一同目 右同 最明寺
一同目 右同 教福寺
〆六貫百目
安原上村
一銀三百目 三月十日 牢人 和泉慶吾
一同百目 右同日 庄屋 藤沢新助
一同百五拾目 百目三月十日 大膳殿郷中小姓
五十目四月八日 和田 茂八郎
一同百五拾目 三月十日 百姓 長右衛門 後家
一同百弐拾目 右同日 同 長三郎
一同百目 三月十日 同 文兵衛
滝治郎
一同百目 右同 同 徳次郎
一同百目 右同 同 七蔵
一同四百目 右同 同 半右衛門
一同六拾目 右同 同 仁兵衛
一同六拾目 右同 同 半左衛門
一同六拾目 右同 同 五郎
金兵衛
一同百弐拾目 右同 源右衛門殿出入家来
小笠原愛蔵
〆壱貫八百弐拾目