[未校訂]安政二年(十月二日)
江戸近辺大地震
このときの地震記録は、袋指田家に
残る「安政二卯年十月二日 大地震
ニ付潰家其外防(亡カ)所等取調帳 指田栄助」という縦二五セ
ンチ 横一七センチの冊文書が一番くわしい。
発生時刻は「二日夜四ツ時」とあるから今の夜十時ごろ、当
時の十月といえば今の十一月であるから、どこの農家も、稲
の取入れで疲れ果てた体をねどこに運んだ時刻、突然襲った
この地震で次のような被害がでた。まず袋新田の円福寺から
出された被害状況を名主指田栄助が、忍藩の寺社御役所、御
代官所あてに報告しているのを見ると、
一鎮守氷川明神拝殿倒壊
一稲荷社倒壊
一円福寺本堂の天井、雨戸破損
一寺の塀重門、外囲塀すべて倒壊
続いて西福寺からの被害報告によると
一本堂、庫裡ともすべて壁、建具、鴨居、敷居、板屛破損
となっている。寺から神社の被害まで含んで報告されている
のは、当時の神社は、寺の所属になっていたからである。
名主指田栄助からは、翌々日の三日元荒川通川面境の土橋一
か所が損壊したのを初めとして、袋村内の百姓居宅と農地面
の変化を忍藩御代官所に報告している。それによると
一畑凡五町歩程 大地裂ケ青土押出し申候
とあり、さらにこれを別の文書には精細に、
一道上耕地 但壱町歩程
一大根袋耕地 凡壱町五反歩程
一笹原耕地 凡壱町弐反歩程
一前耕地 凡壱町歩程
一中耕地 凡三反歩程
と記し、右之通変地出来作付相不成候間、格別のお慈悲をも
って御見分願いたいと書き添えている。
この変地というのは註がきにもあるとおり、地震による大地
のゆれで、地下の青い軟弱な土砂、いわゆるのろが地表を破
って押しだしたものである。これでは作付けは到底できな
い。この願によって、忍藩の係役人は手分けして三日、四日
にかけて実地見分をしている。袋村に調査にきたのは森領五
郎であった。
さらに居宅の状況についてみると
一潰居宅
桁行八間
梁間四間
芳右衛門
一潰居宅
桁行九間半
梁間四間
甚之助
一潰居宅
桁行四間
梁間弐間
佐之吉
一半潰居宅
桁行六間半
梁間三間半
△万治郎
一同
桁行四間半
梁間弐間半
△久八
一同
桁行四間
梁間弐間半
△峯五郎
一半潰居宅
桁行四間半
梁間弐間半
△文次郎
一同
桁行四間
梁間弐間半
△平内
一同
桁行四間半
梁間三間
△三次郎
一同
桁行七間
梁間三間半
△庄五郎
一同
桁行八間
置(奥カ)行四間
△弥三郎
一庇並取付物損じ 嘉平
〃 嘉助
〃 由三郎
一庇並取付物損じ 伝次郎
〃 素次郎後家
一損じ家之分 秀蔵
〃 弥市
〃 仙庵
〃 半左衛門
〃 巳之助
〃 八百蔵
損じ居宅
桁行拾弐間
梁間五間半
指田栄助
一土蔵損じ 半左衛門
仙庵
新右衛門
加吉
由五郎
指田栄助
一門 壱ケ所並外囲江屛木戸損し
但屋敷ハ勿論居宅床下通土蔵床下共青砂押出し土地裂
申候 指田栄助
このとき、袋村には忍藩の役人森領五郎が見分にきている
が、その結果、△印の半壊居宅報告を全壊の部にくりかえて
いる。いきな取計らいというより、破損の度が強かったので
あろう。
このような調査は単に袋村だけではなく、五日には下忍上、
下、明用村、大芦上、中、吹上村も見分しているのである
が、袋村以外の村の被害記録は残っていない。地震発生の時
刻がどこの家でも眠りについたときであり、袋村の被害状況
からみて他の村々の全半壊の戸数も、人畜の被害も相当な数
に上ったと思われるがその点全く不明である。さらに、当然
なことではあるが、この大地震の震源地や震幅についてはな
にも記録されたものがない。ただ、当日二日江戸の泰平堂が
発行した「江戸大地震並出火細鑑」をみると、当地方より遥
かに大きい災害を受けているので、江戸の方が震源地に接近
していたものと思われる(以上指田)。忍藩御勘定奉行所より
出されたものと思われる江原家の文書にも江戸の忍藩邸につ
いて
十月二日夜の大地震にて江戸表御上屋敷御殿初め御長屋向
相潰れ、その上出火類焼、若殿、御前様下屋敷に移られた
とあるから、震度はやはり江戸の方が強かったものと思われ
る。