[未校訂]津浪の惨状を語る鞆浦の碑(海部郡海部町)
片荷を枯木、片荷をシダにして薪の荷が出来た。腰の手ぬ
ぐいをはずして十二歳の平太郎は額の汗をふいた。宝永四
年十月の四日、いかに小春の十月でも毎日毎日の暑さは夏
を思わせる。朝から風もなくよく晴れた雲一つ見えぬ静か
な空の陽ざしはかれこれ八ツ、薪をかつごうとした時、グ
ラグラとにわかの大地震、薪と一しょに転倒した平太郎の
そばの草むらからキジが鳴き立て、諸所からモウモウと土
煙がたち十間以上は視界がきかない。
仰天した平太郎は、足を宙にわが家に帰りを急いだが、途
中でまだ産れて一週間にならぬ弟の与茂四郎と、産後で寝
ていた母を布団のまま背負い、妹二人の手を引いた父四方
原の庄屋野村七左衛門と出会った。
「大地震で津浪が来るだろうから近所の者と子供を連れて
たるみ山へ行け、証文や検地帳を流すのは残念だがしかた
がなかろう」といわれ
「私が取って来ます」と走りかけたところ、母も
「命には代えられぬ。このまま山へ逃げよう」と止めた
が、平太郎は
「津浪が来るまでにはまだ間がある」と取って返し、壁が
落ちかさなって動かせぬ大挟箱をたたきこわして書類、帳
簿を持出した。
山で様子をみていると沖の方で大きな海鳴りとともに光が
走り、微震は止まず、五日の晩までに夜五度、昼七度ほど
ゆれ、三日三晩を山で暮し、家に帰ったところ母は産後の
血の道を患うて……
と。これは海部郡海南町野村家の古記録から見た宝永の海部
郡津浪の一面である。
宝永年間には牟岐浦で仏閣、民家七百余流失、損壊、男女百
十余人水死、浅川浦、宍喰浦と全滅的被害を受け、鞆浦だけ
は一人の死者も出さなかった。