[未校訂](かりそめのひとりごと)
一六四 宝永四年の地震
宝永四丁亥年十月四日未の刻より半時ばかり地震しぬ。予が
祖父をりふし岸の和田にありて、こはけしからぬと思ひけれ
ば、急ぎ皈りなんと思ふに、池の堤崩れたりとて男女東西に
はせまどひ、王子川水かさ増りて渡るべくもなかりければ、
村長をたのみ、人足に助けられ辛くして渡り皈りしに、家の
壁も崩れたり、急ぎはいるべくもあらざりし、いへおとな中
武左衛門、其日の用はてて家に休み寝侍りしが、あはやと思
ひて、とる物もとりあへず出侍るに、立てばこける、又立て
ばこける、せむかたなくわらわなんどの走る様にして、やう
やう近付しとかや、岸の和田も大手の前まで汐浪あがりたり
しかば、つくばひの手水鉢、あるは唐臼の壺などに、かれ・
こちなど入つて游ぎたりしと也。此事はあが父が常の物語な
り。岡部家御領破損の分、おほやけに告げ奉られし書付侍り
見出しぬれば写しぬ。
宝永四丁亥十月四日未刻地震に付潰破損の覚
一二千九百四軒 百姓家
此内三百四十四軒 潰家
二千五百六十軒 破損家
一池数七十七崩堤切申候
此堤二千五百四十七間
一七町余田地破損 此高百三十四石余
此内五町余 汐入田地
二町余 池損に付水押並に崩田地
一死人 女 三人
是は家倒れ候に付き相果申候
右の外怪我人も無し、並牛馬別条無御座候
一破損寺社五十六 郷中町とも
十二ケ寺 潰寺
三十四ケ寺 破損寺
十ケ所 神社破損
一百七十一軒 岸和田町人分
此内 七十五軒 潰家
九十六軒 破損家
一死人 男女 二人
一怪我人 女 一人
右之通に御座候 以上
阿閉平治右衛門
堀左太夫
堺の里にても死人十二人、此内男四人、女八人、怪我人十
人、此内男七人、女三人、崩家二百七十七軒、此内、北にて
二百三十二軒、南にて四十五軒也
しかれば此国の分も、破損死人よほどの事なりしと見ゆ。こ
としまで百十五年になりぬ
されども長明が方丈記に、元暦三年の大地震に堂社塔廟ひと
つとして全からず、あとは崩れ、あるは倒れたる間、塵灰立
あがりて盛なる燭の如し、地震ひ家のやぶるる音、いかづち
にことならず。家の中に居れば忽ちに折りひしげなんとす、
走り出れば又地破れさく、羽なければ空へも上るべからず、
竜ならねば雲にも昇らむこと難しと、書けるより見れば、い
と軽きことなりけり。此外古今大地震度々なり。又慶長元年
閏七月のは如何程にてやありけむ。すべて地震大風のたぐひ
みな天地間の変にして、人の力もて動止するてふことわりは
侍らねど、乱れたる世に、天変地妖の多きことを思ひめぐら
し侍れば、などか治乱につぐものにはあらずとのみばかり定
むべきや。今、神君賢徳の余沢、嗣君の鴻治に潤ひて関睢の
声、もろこしの昔をしたふに及ばず。麟趾の化、日にあらた
なれば、万民皷腹酔歌の声、ともに天地の気も定まりて、昔
のやうに恐しきことの絶て侍らぬぞ目出度き。此おほむ恵み
は、いくそばくとや思ふ。口のあきたるままに、形なき事を
云う者は、堯の民の恩をしらざりしたぐひにこそ
補遺終