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項目 内容
ID J2207485
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1896/08/31
和暦 明治二十九年八月三十一日
綱文 明治二十九年八月三十一日(一八九六)
書名 〔菻沢歳時記〕○秋田県仙北郡金沢西根村(現仙南村)
本文
[未校訂] 卅一日(旧七月廿三日) 丙辰の日也、朝東風吹き、午前
十時すぎ石神山にて雨ふりに遭ふ、手元、富之助、常吉三人
づゝ杉木伐る所、手間とり頼みに行き、帰りがけ石神の寺へ
寺詣りに行き、酒一と口候ふ処へ大地震来る、御堂潰れ、手
元、富之助、巳之松、吉蔵、彦左衛門辛うじて免がれ候。乃
ち家に帰る道側、石神も洪大潰ぶれ二戸火事おこる、鶴田の
祈禱師宅も、開きの徳右衛門も潰ぶれ、手元の家に帰り候処、
家は大曲りに曲かり、南の土蔵の壁墜ち、向ふの大樹の根許
へ木小屋が潰ぶれかゝり、西の座敷、後ろの新座敷、水屋と
もいたまず、前の米小屋、徳兵衛屋敷の小屋などは格別のい
たみ無之、修繕の必要なき模様。当[字|あざ]の潰れ家は与四兵衛、
清兵衛、寅蔵、周吉、善四郎、多十郎、善助、熊吉、久三郎、
千代松、勘五郎、永助、また半潰れは嘉左衛門にて〆めて十
三戸。大曲がりの家は久五郎、文吉、小八郎、藤三郎、末吉、
丈助、嘉市、善兵衛、半蔵、石五郎〆めて十戸、少分の曲が
りは元達、多左衛門、幸次郎、伝次郎、政吉、小太郎〆めて
六戸、惣〆廿九戸。人畜鶏とも死傷なし。大工四人塗師一人
来りて仕事中なりしなり。よほど以前より雷鳴、風雨あり、
地震も度々数知れず頻々としてありたり今日は朝より度々の
地震ありしため、家人も心も心ならず居りたる始末、午後五
時過ぎに遂に大地震ありたる次第にて、始め西南方にあたり
て大雷の鳴りはためく大音響起り、それからの大地震也
九月
 一日(旧七月廿四日) 丁巳の日なり、曇天、地震の震ふ
こと数を知れず、幾度も西南にあたりて鳴り鳴りわたりて地
震となるなり、その怖ろしきこと言語に絶えたり、只今にも
死ぬるも知れず、世人は表へ小屋を掛けて昼夜そこに蟠まり、
地震数知れず、只だ酒一と口、思案の外なし、聞く処によれ
ば、字板杭は潰家久一郎、三九郎、彦兵衛、松蔵、久吉、浅
吉、ただ長助ばかり無事なり
 二日(旧七月廿五日) 曇、地震更に絶ゆる事なく、西南
方より少々北方にあたりて雷の如く幾度も鳴りわたりて地震
となる。一日の内その数知れず、只々悲嘆の外なきなり、大
曲りに曲りたる家を如何致して宜敷哉と思案斗りなり。当地
潰家二百戸位、大破損は百何十戸、上深井村立家三戸、残皆
潰れの由、高梨樫尾両家、橋本の書状いだす
 三日(旧七月廿六日) 今度は西方の上空にて雷の如く鳴
渡れば地震となる、その頻りなる事数を知れず、北方の話を
きくに親類の樫尾良助、家つぶれ、味噌庫も潰ぶれ、残れる
土蔵は塗土悉く落ち、只板小屋と後ろの坐敷のみ残りある由、
謙吉、久助、八兵衛、久太郎、久次郎も家潰ぶれ、高梨村に
て立家はわづかの由、樫尾重蔵も板小屋の外皆つぶれ、橋本
村五十戸の内五戸だけ立家残る、潰死人三名、負傷者三四名
のよし、重蔵よりの手紙に認めあり。樫尾八五郎、同八之助、
家つぶれ、板小屋残りてあるよし、又安城寺村六十何戸の内
三戸だけ残りて皆つぶれの由。手元、笠巻は地震弱きに付手
間とり頼みに行
 四日(旧七月廿七日) 東風吹、西北にて鳴れば地震とな
る、其数無数。手元、家ほごし、当字では嘉左衛門より二人
来り、廿六人となる、笹巻より幾松、又三郎、文蔵、孫兵衛
二つ柳の伊左衛門来りくれぬ、向屋だけ出来、尤もサス迄な
り、青山より書状来る、浄信様来る、石神の寺より米一俵の
無心来る
 五日 大雨ふり、幾度も西北或は天にて鳴れば地震とな
る、下人一人向村へ遣す、一人は潟村へ遣はす、夜爺独りに
て家の中を片つけ、湯沢の八五郎、横手の新田、追分の三郎
より見舞の端書来る
 六日 大雨、下人向村と後村へ一人づゝ遣はす、手元、前
の土蔵二階片付け、平治水屋の二階片附け、大抵北西にて鳴
渡れば地震となる、又東北にて鳴ることもあり、これも地震
になる事に変りなし
 七日(旧八、一) 大雨降、下人一人づゝ向村と後村に遣
はす、手元大曲の貸家見るに行、与四郎も見舞ふ、甚十郎同
断、左官へ行きしに明日可参上旨、女どもの申すことなり、
大曲にて簔帽子三人前、[解良|けら]二枚買入る。
 八日 大雨降、二つ柳の文次郎子供、伊左衛門弟、手間と
りに来る、大工兄は善四郎へ貸してやる、小原伊三郎は渋元
へ貸し、与吉と伊右衛門兄両人にて後ろの[萱埃|かやごみ]を新三郎屋敷
の乳穂へ運ぶ
 九日(旧八、三) 朝雨、伊三郎を善助へかす、与太を多
左衛門へかす、平治角間川久保江大工並に黒川へ手間とり頼
みに行、夜爺三郎兵衛、六郷の糀屋に糀並にモト買ひに行、
八日の夕九日の朝、弱地震三度来り、午前七時四十七分よほ
ど強き地震あり、午前十一時頃役場より小作米入れ置きたる
処へ印形可差出趣申来り候に付据印仕候。横堀の押切より酒
五升添手紙来る。青山熊五郎、京都東六条吉田多兵衛、青森
の栄治、三州の三浦泰宮、湯沢の鈴木又五郎より見舞の手紙
来る。伝十郎、伊右衛門、下人市兵衛、夜爺文治の兄手間と
りに来る、伊右衛門兄は多三右衛門の家直しへ行、与太、多
三右衛門より帰る、前の土蔵の土搬び、午前九時頃晴れ、午
後五時より大雷雨、午前九時強震、そのほか十度余もあり
 十日 大雨ふり、伊三郎は仁助行、伊左衛門は下人与四郎
行、前の土蔵の残り土はこび、並に前の萱片付、夜爺モッコ
拵、雨は一日降り続く、石神の寺の兄来泊
 十一日 少雨、黒川村より三五郎、宇三郎、仁八、忠蔵、
善助、小八、新七、与八、六兵衛、作太郎、伊左衛門手伝に
来る、後ろの土蔵の土落し、手元追分の左官を頼みに行、舟
場の鍛冶へ「カスガヒ」壱円代注文、地震四五度来る
 十二日 一日雨降る、伊三郎、夜爺休み、与太、伊左衛門
下人小太郎二人、黒川衆手間とりに後の土蔵土はこび、二人
は土踏み、手元六郷へ町だち、地震四五度来る
 十八日 晴、川端の大根スグリ、前の小屋下へ植る、平治
蛇沢へ茸とりに行、大手柄、地震四五度
 十九日 晴、平治、弟助、富之助、庄助茸とり、地震五度、
午後六時すぎ強震あり
 廿日 晴、角間川より鯡二十四束入一籠買入、地震五六度
 廿一日 晴、地震五六度
 廿四日 晴、手元六郷へ舞茸買に行、地震一二度、鳴りは
やまず
 廿六日 晴天、弟助午後三時すぎ、手の筋を外づし大騒ぎ
となり、平治、伊三郎、小太郎、文之助、周吉、為〆五人に
て今泉より駕籠を借入れ川口の医者行
 廿七日 午後一時過ぎに帰る、地震五六度、鳴不止
 廿九日 晴、手元お掃除、平治帳面に掛る、午後五時すぎ
強震、先月大激震以来の地震なり
 卅日(旧八、二四) 晴風、伊三郎石神の寺人足、袋入の
白米一俵荷ひ行、平治地震傷みの田を見るに行、手元、千間
谷地の助左衛門作見に行。屋根葺
震源地の検分
十月
 一日(旧八、二五) 極晴天、下人稲刈、手元富之助、甚
兵衛、仁助、平右衛門、仁助子ども六人つれて北方の地震跡
見に行、六郷より[善知鳥|うたう]坂の観音様へ参詣、御宮の境内北南
に割れ、幅四尺五寸、長さは南方の山下まで割れ、其下田面
平地のところ東方一丈五尺高く東京より[巨智部|こちべ]博士来り見る
に此通り五里の間やはり高くなると云ふ事也。右山西南より
同村小左衛門と申者の家まで山岸どほり北へ行くこと十町ば
かりの処、山崩れ二丈斗り上より稲あり、皆割れ夫より十四
五町北へ行候処、同字五郎左衛門家の北の山割れ走り田面稲
二千刈を埋め、若木の楢、栗其外雑柴生てあり、夫より竹原
と申処へ山端行、田側皆同様、右村の屋敷々々より土掘り出
したる事如山。夫より千屋村に至る。又山端へつき歩む、千
屋村字花岡、同所平左衛門と申す中百姓、山の上の屋敷也。
是は山より土走り来、不容易難渋と見受たり。花岡の北方生
方へ松の古木ある、五丈ばかり高き山へ登り中食たべ、夫よ
り北へ行く、上野と申す所の中等百姓長八と申者にて休む。
同人家大家にて台所と茶の間の中の柱、杉にて一尺二寸角な
り其家に同様の柱六本あり、右柱のため家不潰、只少々曲り
候迄なり。夫より小森へ行、坂本藤兵衛屋敷を見候処、家は
やり馬屋とも被思候大家なり。三間に五間斗の此節塗候土蔵
あり、其外坐敷とも不思もの少々見え申候。其処の重四郎と
申者の田地、千五百刈斗の処、山新たに顕はれ候よし聞伝候
へども山岸には皆一丈も二丈も上り候。稲上げ居候に付不分
道は善知鳥坂より[一丈下|いちじやうげ]迄或は道あり、或は道は山の下にな
り、一円不知、一丈下の山散々に割れてあり、[鞠子川|まるこかは]に新に
滝二ケ処出来、滝を見る、夫より角館街道行、中野村にて日
暮れたり。午後八時半頃帰宅す
 二日 極晴、下人稲刈、平治弟助川口の医者へ弟助ヒシ尻
再び掛るに行、午後五時頃帰る、地震二三度、鳴不止
 三日 極晴、手元高梨村へ地震見舞に行、午後四時過に帰
宅、五時頃夕立、地震三四度、鳴不止
(十二月)
 廿二日 よほど雪降る、下人稲扱、手元、天皇皇后両陛下
より震災に付御下賜金拝領に本村役場行、上深井力蔵へ酒桶
二本貸、♠ノ印附、篤心寺へ糯白米二升蠟燭廿目掛二丁添上

 廿三日 吹雪、上深井力蔵へ濁酒入石米二俵遣す、外五円
酒造る
(明治三十年五月)
 九日(旧四、八) 寒風吹、勇蔵、栄治宅煤掃方、手元、
弟助、富之助、渋末、渋幸、文吉、渋末子供、倉吉子供、真
蒜山へ地震に付鍋割の下、赤石ノ薹(カ)に出来た新沼見るに行、
山上より半分割れて沢へ落水、水溜りて潟となり、水の深さ
何十尋とも知れず、上は真逆坂の下まで淀むといふ、帰りが
け田沢清一郎へ寄り御馳走になる、午後十一時少々前に帰る
出典 新収日本地震史料 補遺
ページ 1200
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 秋田
市区町村 金沢西根【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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