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項目 内容
ID J2200363
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1586/01/18
和暦 天正十三年十一月二十九日
綱文 天正十三年十一月二十九日(一五八六・一・一八)〔畿内・東海・東山・北陸の諸道諸国〕
書名 〔天正大地震誌〕S62・3・31 飯田汲事著 名古屋大学出版会
本文
[未校訂](第Ⅱ編 地震史料編 第1章)
3 顕如上人貝塚御座所日記
(「増訂大日本地震史料」五六五頁)
天正十三年十一月二十九日、夜四ツ半時大地震、夫より十
余日不止折々地震、此頃内侍所鳴動之由申来、禁中御祈
禱種々有之、卅三間堂の仏六百体倒給と云々、飛州の帰
雲と申在所は、内島と云奉公衆ある所也、地震にて山
崩、山河多せかれて、内島在所に大洪水はせ入て、内島
一類地下の人にいたるまで、不残死たるなり、他国へ行
たる者四人のこりて、泣々在所へ帰りたる由申訖、在所
悉淵になりたるたり(後略)
6 兼見卿記九
(吉田良義所蔵 謄写明治十八年 写本は東京大学史料編
纂所所蔵 全十八冊あり 第九は天正十三年八月―十二月
の記録である)
天正十三年十一月大
二十九日乙丑 子刻大地震居宅既ユリ壊体也暫時不止地妖
凶事如何
三十日丙寅 昨夜地動神檀石懸多分崩文庫二階之軒丑寅一
間斗欠テ落次之塗屋土居ヲユリ下テ板敷ハ下恵引ハナシ
無正体破損候石懸端之直シ普請申付候、地動至今日不止
切々地動候入夜大地震昨夜ヨリ少軽
二十九日地震ニ壬生ノ堂壊レ所々在家ユリ壊数多死云々
丹後若州、越州、浦辺波ヲ打上在家悉押流人家事不知数
云々江州勢州以外人死云々自坂本俄関白御上洛大伴通也
風寄以外也御返之事俄之間諸家不罷出然間予聞亦不罷出

十二月大
一日丁卯 天晴神事如常地震切々未止松田新右衛門申シ□
□□□
了禁中御築地已下損畢公私□□□事斗也神事以後殿下為
御礼罷出今日ハ無御対面唯々□社出
二日戊辰 所労咳気舜蔵主良薬愛用之早々所□神社出未明
大坂帰下旬也云々
三日己巳 至今日地動切々也、自勧亜相申来云々□出□子
□□□出之旨申来り取労以外也先以使先□□之使者□□
云今度地動連日不止方々勘文以外之凶事也於禁中御祈禱
之儀云々
(勘文―むかし陰陽寮から博士どもの奏聞した案文で
天変地異吉凶などのことを考えかいたもの 漢和大字
典二六四頁)
四日庚午 出京向勧亜相対面云 御祈禱ノ儀於禁中神道大
護摩可修行之旨内々相伝出也云々
五日辛未 勧修寺へ以使者申遣云十七日御祈禱六十石三日
卅六石御下行之由申入る□□□之由返事あり
十五日辛巳 去九日已来地動時ニ不止
十七日癸未 越州佐竹出羽守出状至来云妹今度大地震私宅
壊落死ス□者女兄弟也軽服明日神事也別屋へ罷出侍憶二
十日明日不来日
10 天正十三年両宮正遷宮前後之申分
(神宮文庫〔一〕80211)
(前文略)殊(七月)今月五日大地震之刻巽方智木頽落、是御朽損
甚故也、尤驚怖神慮叵測者歟、其上一社奉幣諸祭事等皆以
外宮為先、是又内宮御詫宣也、旁以当宮日時早速被仰下者
天下泰平、聖運長久御祈禱弥可奉抽丹懇之旨注進(ママ)言如斯
以解
天正十三年七月 日 正六位上度会神主久能上
11 神宮年代記
(神宮文庫〔一〕74751、松木五禰宜集彦年代記外題有歴代
通覧巻之二)
同(天正)十三乙
酉(中略) 十一月廿九日夜大地震アリ、勅使ハ柳
原大納言也御祈之事
14 定光寺年代記
(定光寺建武三年(一三三六年)創立 尾張瀬戸 一五六
八年頃成立)
天正十三年十一月廿九日大地震
16 多聞院日記
(奈良興福寺多聞院英俊著 文明十年(一四七八)~元和四
年(一六一八)の大乗院寺社雑事記 第三巻・第四巻
辻善之助編 角川書店 昭和42・11・23。「増訂大日本地
震史料」五四七~五八五頁)
(注、他出ある部分は除く)
二(天正十四年)月十二日 七ノ過ニ地震了、此間モソトツゝ毎日動了、
去年ヨリ今日迄如此、七十五日計歟
三月廿七日 又今朝地震ツヨク動了、ハテヤラヌ事也
十一月二日 西京薬師堂ニ大ナルカナ仏ノ掘出タルヲ、順
慶之時入テ被置タルヲ、大地震ニコロヒテ頸ヌケタルヲ
盗テ堺へ売ニ出ケルヲ令才学、取返両人召取、一人ハ大
将ナレハハタ物ニ上、一人ハクヒヲ切テカウニカケテア

一(天正十五年)月九日 昨夜亥ノ初点ニ地震了
二月三日 昨夕自戌刻今暁迄三度地震了
二月二十六日 地震了
三月十三日朝ノ間大雹木連子ホドナル
降下、消肝
昨朝ハ如雪ナル大
霜下、去々年ノ十一月廿九日ヨリ昨今迄、浅深軽重大小
コソアレ、地震毎日毎夜也、去月ハ昼夜度々、当山ヨリ
西へ幡雲立了、当月七日ニハ四打ノ時分ニ、日輪五出
了、各慥ニ見之、黒日赤日色々也シト云々、七難ノ最
頂、仰天地ノ物怪非只事、一天ノ動乱眼前也、如何ナル
事アラン哉、物ヲ侍様也、沈思々々
四月廿六日 地震了、去ル年十一月廿九日ヨリ多少コソア
レ毎日于今地震在之
四月廿七日 昨日モ地震了、去々年十一月廿九日ヨリ多少
コソアレ、毎日于今地震在之、ワニクチノ雀ニテ何共不

五月八日 申刻ノ終ニ地震過近日ユリ了
24 Documents Sur Les Tremblements De Terre Et Les
Phénomènes Volcaniques au Japon. Par M. Alexis
Perrey (Mémoires Acad. de Science, Lyon, Vol 12,
pp. 281-390, 1862.)
1586-Au Japon, tremblement le plus violent qu’ on y
ait jamais ressenti. Les secousses ne finirent qu’ après
quarante jours et sétendirant depuis la province du
Sacaja jusqu’ à Miaco. Il renvera soixante maisons dans
la ville de sacaju. Nagafama, qu’ est un petite ville
d’ environ mille maisons dans le royaume d’ Domi fut
à moitié englontie, et l’autre moitié fut consumée d’
un feu qui sortit de la terre. A Miaco, plusieurs
maisons lurent rainées, avec un fameux temple des
idoles. Dans la province de Facata, il y avait une
petite ville fort fréquentée part les marchands, et
appelée aussi Nagafama par les habitants, qui après
avoir soffert d’ horribles secousses pendent plusieurs
jours, la mer s’ enfla tellement que l’impétuosité des
flots jeta les maisons par terre et les entraina dans la
mer, engloutit tout les habitants et ne laissa pas la
moindre trace d’ une ville si riche et si marchande,
hormis l’endroit où etait le château, et encore etail-il
sous l’eau, Il y avait une forteresse dans le royaume
de Mino, située sur une haute montagne ; après
plusieurs violentes secousses, la terre s’étant entr’-
ouverte, engloutit la montagne et la forteresse, et un
lac purut au lieu où elle etait. La même chose arriva
dans la province d’ Ikeja. Il y eut en divers entroits
du Japon des gouffres et des ouvertures de terre si
larges et si profondes qu’un mousquet ne portait pas
d’un bout à l’autre, et il en tremblement commenҫa,
Quabacuuduno (appelé ensuito Taicosama) etait à
Sacomot, dans le château d’ Achec; mais la peur qu’il
eut le fit retourner en poste à Osacca, où il se croyait
plus en sûreté ; ses palais souffrirent defurieuses
secousses, mais ils ne furent pas néanmoins ronversés.
(Kaempfer, Hist. du Japon, trad. franҫsaise, t. I. p.
90, d’après une lettre écrite le 15 octobre 1586, de la
province de Nagatta, par le P. Froës et insérée dans
le Recueil de Rebus Japonicis du P. Hay) L’auteur
donne ailleurs (p. 167) la date du 29 du 12e mois, et
dit que les secousses continuèrent presque un an entier.
Il indique 1585.
Gueneau de Montbeillard donne la date mensuelle
de septembre ou octobre (Coll. acad.) Von Hoff donne
celle de septembre, d’après le baron Zach, Corresp.
ast., t. X, p. 472. Voyer encore Hist. gén. des
Voyages, t. X, P. 652; Bertholon, Hist. des Météores,
t. I, p. 364; Charlevoix (l. c. ) Bonito Terra
tremonte : Bollandistes, au 5 février. (Documents,
pp. 317-318. )
(訳) 日本の地震・火山記録 エム・エー・ペレー
(「フランス・リヨン科学アカデミー紀要」十二巻 一八六
二年)
一五八六―日本で起った地震は、人がかつてそこで感じた
最も激しい震動であった。震動は堺地方から都(京都)に
至る広範囲にわたるもので、地震がおさまったのは四十日
後であり、堺の町では、六十戸が倒壊した。近江の国の約
一〇〇〇戸の小さな町、長浜ではその半分が消滅破壊さ
れ、他の半分は地面から出た火で焼失してしまった。京都
では、仏像のある有名な寺も、数多くの家とともに破壊さ
れた。坂田郡に商人たちによってたびたび往き来された小
さな町があった。住民達によって長浜と呼ばれていた。幾
日かの間恐ろしい震動をこうむった後、激しい波が地上の
家々に打ち上げ、海に引きずりこむほど水位が高くなっ
た。そして、住民のすべてをのみこんでしまい、その非常
に豊かで商業の盛んな町は殆ど痕跡を残すことはなかっ
た。ただ、お城のあった場所は水中にその痕跡があった。
美濃の国には高い山頂に位置する城があった。何回かの激
しい振動の後に地面が割れ、山と城をのみこみそこに湖が
できた。同じことが池田地方でも起った。日本のさまざま
な場所でできた、くぼみや地割れは大きくて深く、火縄銃
を渡せないほどのものであった。そしてそこからは悪臭が
出たため、旅人はその辺を通ることができなかった。この
震動が始まったとき、関白殿(太閤と呼ばれた)は坂本に
ある明智の城にいた。しかし、恐怖のために大急ぎで大阪
に帰った。大阪はより安全だと信じていたからであった。
お城(パレス)は激しい地震動には耐えたが、再び開くこ
とはなかった(破壊した)。
 ケンペル著『日本歴史』の項はP. Froës によって永田
地方で一五八六年十月十五日に書いた手紙によるものであ
り、またP. Hay の日本の謎編集中に載せてある。著者
は他所で(一六七頁)一五八五年十二月二十九日の日付を
与えており、震動はだいたい丸一年続いた、としている。
(飯田訳)
(第Ⅱ編 地震史料 第2章)
3 古書抜書
(佐伯美濃氏蔵)
一大納言様御舎弟、前田右近様津幡御在城、然所天正拾三
年礪波郡木舟之城江御移居被遊候所ニ、同年十一月廿九
日大地震、御城中に大雪大水押入破損仕、御夫婦御一所
に御死去被遊、御死骸相見え不申其外町屋江も死去仕候
由、其后右近様御子息、又二郎様、同十四年今石動山城
に御引越被遊候、右貞享 (ママ)年廻国御上使江申上口上覚
書写
右近様、津幡より天正十三年四月十三日ニ木舟江御引越
被為成、又二郎様大地震之時分、上方ニ被為成御座直く
に、今石動山城江御越被為成候由、木舟大地震、十一月
廿九日、うかまつれ夕膳時分またかれ不申程われのき下
よりひかり出申由
一木舟村明神先年より石黒左近殿御地代より有来り候。其
後佐々蔵之助殿時分も其通り。又其後前田右近様罷成御
座候時分も其通り。木舟村明神代々御祈禱之社と神主及
断明神社之内田畠等は指除参り申所如件
慶長拾年 柴山権兵衛判
寺西 若佐判
明神 神主
一小松中納言様、御台様、御わつらいのよしニテ木舟村明
神ニテ御祈禱被為仰付、白銀一枚被下候
御姫さまおち御状
四月二日
越中きふ年明神
かんぬしとの
右両通下蓑村神主但馬方ニ御座候
25 小郷地蔵尊像の由来記
(岐阜県恵那郡加子母村 丹羽圭一所蔵)
小郷ニ□□威徳寺ノ御創建□□依而小郷時頼之挿杉有其後
茂移ル。天正十三年大地震而諸堂伽藍悉ク寛、愈々威徳寺
滅郤之後、宝物之内大般若経六百巻並十六善神二タ品、白
川神土邑庄屋ニ納有ト謂伝、地蔵尊像再威徳寺旧来之㕝験

注、小郷地蔵尊セナカニ書ホリツケ有写
渡辺の遠藤左近将監持遠之子遠藤□番上要川院の常
永□□常心おこし
55① 越之下草
(宮永正運著 地誌 紀行文 安永9年(一七八〇)頃終
筆)
一木舟古城 糸岡郷木舟村にあり。
平城にて本丸南北七拾五間程、東西六拾軒許。二ノ丸南
北五拾間計、東西四拾五間計。三ノ丸、南北六拾間計、
東西三拾間計。周廻幅五拾間、三拾間、或ハ拾五間計の
城跡三重にあり。今ハ多く田畠と成されど封彊残れり尤
水深成田地なり。永禄の頃石黒左近将監居住也。其後天
正十三年五月前田右近将監秀継君入城云云。(中略)天
正十三年十一月廿九日大地震にて前田右近将監秀継君此
城におゐて卒去。子息前田又次郎継長君今石動の城へ引
移り給ふといふ。今石動より道程一里拾町、高岡より弐
里三拾町計
55② 越之下草(富山県郷土史会叢書二)
(宮永正運著 富山県郷土史会 北国出版社 昭和55・8
・31 五六頁)
一今石動古城 宮島郷桜町村山中にあり。今石動の上への
ぼること六町計
(中略)天正十三年十一月廿九日、木舟城地震にて震毀
廃城と成、前田継(利秀)長君此城へ引移り給ふと云
62 大湊古文書
(寛政五癸丑年(一七九三)頃の記 三重県伊勢市役所大
湊支所所蔵)
天正十二年甲申尾州小牧御陳は上様信雄卿両大将にて羽柴
秀吉公と御対陣被為成候其砌御朱印船は八幡新造と申間宮
に被仰付御陳船に罷成申候七郎次郎儀ハ度々船にて往来致
し候得は浦々御案内可仕旨被仰付恐多くも上様と御同船に
て浦々御案内相勤申上候(中略)天正十六戊子年蒲生飛驒
守氏郷公江州日野山家より御所替被成、勢州松ケ島と申在
所に御居城候処其頃は浦辺にて度々の津浪御座候故只今の
処を松坂と号した。度合郡山田三宮内も氏郷公へ御奉行
し、松坂にきて町一町を取立て湊より出候事に候得ハ湊町
と号して居宅を構へ申候
65 越中地誌
(青木北海著 文政頃(一八一八―一八二八) 「越中史料
叢書 越中宝鑑・越中地誌・越中旧事記」歴史図書社
昭和48・10・15 三七六頁)
貴船(※貴船村)(古城)(※川口弁財天※水牧村)
同書云越中貴船ノ城主石黒左近水巻采女両人ヲ信長ノ下知
ニテ江州佐和山ニテ切腹ノ事七国志ニ記タリ末森ノ戦ノ時
ハ佐々成政ヨリ佐々平左衛門ヲ此城ニ置タリ其後前田氏ノ
領国トナリテ加賀津幡ノ城ヨリ前田右近秀継入城ナリ然ル
ニ天正十三年十一月廿七日大地震ニテ此城崩倒ナシ秀継モ
死去ナリ其時庄川ノ川口弁財天ノ堂塔并民家顚倒ナスヨシ
三壺聞書ニ委ク記シタリ又水牧村ト云此辺ニアリ
66 都田村年代手鑑
(庄屋金原家記録(天正年間―嘉永元年)浜松市史 史料
編 第二巻 昭和34・3・20 一七九頁)
天正十三年酉年秀吉公くわん白に任ス、十一月大地震
67 野史
(別名、大日本野史 日本野史 紀伝体の歴史書 飯田忠
彦編著 嘉永5年(一八五二)成立)
天正十三年
十一月二十九日。乙丑。地大震。(補任、梵舜日記、残太
平記、分類、作十月)畿内及東海東山北陸三道尤甚。地
裂水涌。人家毀陥。死者亡算。迄明年春。地動不遏。
(豊鑑、補任)丙寅晦。雷。(梵舜日記)十二月六日壬午。
内裏仙院南門上梁。(紀事、附録、梵舜日記)是歳。大餓。
疫行。餓莩相望。民茹草根。(逸史)
天正十四年丙戌。春正月三日己亥。地震。四日庚子。又
震。八日甲辰。又震。十五日辛亥。大雷。二月八日癸酉。
地震。迄三月数動。夏四月九日甲戌。又震。二十九日甲
午。賀茂社司就前田玄以奏。神田耗減。資給不足。不
能修競馬。及聞。殊詔賜供御田二十斛。以充競馬用
度。六月二十三日丁亥。地震。二十四日戊子。又震
(第Ⅱ編 地震史料編 第3章)
63 十四山村史(愛知県)
(吉川博編集発行 昭和26・3・15 五頁)
島ケ池新田
天正三(十)年十一月二十一(九)日大地震後廃田となり、後六十四年
正保四年に至つて尾州侯の事業として他の十四ケ新田と共
に開墾せられ、慶安二年佐野才兵衛忠定等伊勢国西富田村
から初めて移住し農田を開いた。
94 砺波市史
(富山県砺波市史編纂委員会 砺波市役所 昭和40・3・
20 四一九―四二一頁)
庄川之事
庄川往古は小牧村の屈曲より高瀬村へ落合い河崎村へ到り
小矢部川へ入り鷲ケ島村へ流れ候の処、応永十三年丙戌六
月大洪水にて野尻川へ入り、それより段々東へ決流れ中村
川又千保川へ落合候事
一其の後は藤掛舟渡場(合口ダムの辺)より青島村・高義
(儀)新村・五ケ辺ゟ西へ流れ申候。然る処、天正十三年
十一月廿二日、大地震にて金谷(屋)岩黒村の東の山、庄川
の蛇島と申す所へ抜落ち庄川を突留め、名ケ原の麓へ崩
れ流れ候。此の時今の川筋出来申す由にて、其の節雄神
神社も中村へ流れ行き、若林の口水宮へ上り玉ふ由の事
一其の後寛永七年弁才天の西より入川仕り田地押流し、此
の時庄川といふ大流川に相成候由
一其の後明暦元年庄川水流千保川へ決して高岡瑞竜寺等危
なし。依て柳ケ瀬[舛形川除|ますがたかわよけ]御普請の為、奉行伊藤内膳様
御出仰付られ候事
これによると、昔は、[小牧|おまき]から西に折れて高瀬を通り、[川|かわ]
[崎|さき]([小矢部|おやべ]と山田川の合流点)で小矢部川に合流したとい
うのであるが、高瀬へ流れるには金屋や[示野|しめの]の台地を通ら
ねばならず、地形からみてはなはだ不自然である。しか
も、示野台地一帯にはおびただしい縄文土器が露出して散
在し、歴史時代に入ってからの庄川の河床となった形跡も
みられない。歴史時代に入ってからの庄川の南限は[野尻|のじり]川
もしくは二万石用水の一支流である六カ用水の近く、[青島|あおしま]
―[清水明|しみずま]―[上野|うえの]―[松原|まつばら]―[二日町|ふつかまち]―[上津|じようず]―小矢部川あたりと
考えられる。それを境に南北の土質は相当の違いを見せて
いる。
天正十三年十一月、中部近畿両地方にまたがって起った大
地震は庄川の様相を一変させた。まず金屋の対岸で山崩れ
が起って庄川の水流を堰止めた。幾日も滞り、やがて満水
した水は文字どおり堰を切ったように流出した。このと
き、水流は弁才天社のところで二つに分かれ、一つはもと
の千保川へ一つは当時中田川という小流にすぎなかった現
在の庄川の流路へ流れ入り、新しい川筋を作った。
125 福光町史 上巻
(福光町史編纂委員会 富山県福光町役場 昭和46・8・
20 二九四頁、一一五四頁)
木舟城と石黒氏
木舟城は、西砺波郡福岡町木舟にあり、古くは糸岡郷内で
あった。木舟は諸書に貴船とも書かれ、元暦元年(一一八
二)福満城主石黒太郎光弘が、砺波一円を支配するに及ん
で、出城をここに築いた。西に小矢部川をひかえ、貴船の
平岡、池沼の要害地に位し、石黒氏四〇〇年間の居城で、
宗家福光城と並んで砺波郡の鎮めとして存続していた。城
主石黒成綱が天正九年(一五八一)七月、江州長浜にて織
田信長のため謀殺されて滅亡し、その後佐々成政の将、佐々
平左衛門が天正一二年(一五八四)より約一カ年居城し、
木舟城想定図
「木舟城の資料」所収
のち前田秀継が、翌十三年十一月二十九日の大地震にて圧
死するまで四カ月居城であった。この城下町は今石動に移
築されたが、さらに高岡城築城に際し、現在の高岡市木舟
町に移った。その城郭の遺構は、宝暦十四年(一七六四)
『古城址調書』に、
本丸 東西 六十間(一〇九メートル)
南北 七十五間(一三六メートル)
二ノ丸 東西 四十五間(八二メートル)
南北 五十間(九一メートル)
三ノ丸 東西 三十間(五五メートル)
南北 六十間(一〇九メートル)
堀 廻り幅 五十間 三十間 十五間の三重
富山県として、西砺波郡として特記される地震は、まず天
正十三年(一五八五)十一月二十九日の夜半に起ったもの
である。余震は十二日間も続いたといわれる。砺波地方に
激しい地震があって、木舟城(いまの福岡町)は崩壊陥没
し、城主前田秀継夫妻が圧死した①。また、この時、金屋
村・岩黒村地内の東方の山がくずれて庄川の流れをふさい
だ②。約二十日間水がたまったまま流れず、庄川本流が干川
原となったといわれる。そしてこの湛水が欠壊して押し流
れ出すときは、下流の被害が多大であると考えられて、沿
岸関係町村の住民が立ちのきしたとのことである。しかし
被害はなかった。震域は畿内・東海・東山・北陸諸道全域
におよんだ③といわれるから、恐らく当町地域にも多少被害
を生じたことと考えられるが、記録されたものは見当らな
い。
注 ①越中史料 ②富山県災異史料 ③石川県災異誌
130 加子母村史
(加子母村史編纂委員会 岐阜県恵那郡加子母村 昭和
47・4・17)
威徳寺加子母村の人々に語り伝えられ、多くの関心を
よぶものに威徳寺関係のことがある。確実な記
録もなく、伝説的なことが多いが、本堂・講堂をはじめ、
十二の建物があったといわれる威徳寺の存在は、その礎石
や五輪塔数基の存在で裏づけられるが、創建年代は不明で
ある。(六四頁)
しかし、『恵那郡史』に「……加子母の小郷地蔵、大威徳
寺関係遺址……など、いずれも当時代における創建又は改
修のもので、直接間接に頼朝の敬神崇仏の影響を物語るも
のということができるであろう。」と述べ、『岐阜県史』(通
史・中世編)に「天台・真言の系統に属する重要な寺院の
ほとんどは、古代すなわち平安時代に建立されており、こ
の時代に新しく作られた寺院は殆どない。しかしこの時代
には天台・真言両系統の人達の一部が、この地方における
山嶽信仰の中心地に集まって、地方的に特殊な信仰形態を
もった集団を作り出している。」と述べている。更に、「威
徳寺は頼朝の命にて永賀上人(或は文覚上人ともいう)が
諸州を廻わり、この地にきてこの寺を建立した。其の後、
兵乱で荒廃したが、修理もできない時に、天正十三年十一
月晦日の大地震のため、本堂はじめ諸建物が焼失し、その
後再建の力もなく、僧侶も方々に散ってしまった。」(『益
田郡史』)と書かれているように、鎌倉時代には創建され
ていたものと思われる。
この威徳寺の十二坊の一つとしての多聞坊が小郷の舞台峠
下にあったといわれるが、これについては伝説の項に記述
されている。
常楽寺(神土)・大蔵寺(佐見)が威徳寺の末寺である
(『中野方町史』)というのをみると、その勢力範囲がうか
がえ、加子母農民にもかなりの影響を与えていたものと思
われる。
更に、威徳寺と関係して、「小郷は元飛驒国益田郡竹原村
の内で威徳寺の境内及び寺領であったが、天正以降廃寺と
なり元和元年加子母村に加えたりという」(『恵那叢書』)
とあるが、この書物自体明治になって古老の口伝を記した
もののようであり、これより推測することは極めてむつか
しい。(六五頁)
大沼舞台峠から小郷の平へ降りた近くに、大沼という
沼があった。近年行われた耕地整理事業のため
に、大部分は田になり、僅かに山際に残った所も干上って
いるが、それまでは泥深い沼であった。天正十三年威徳寺
が壊滅した地震の折に、この地が陥没して出来た沼である
と伝えられ、今でも大きい木の株が沼の底から出て来るこ
とがある。
多聞寺さまは昔威徳寺十二坊のうち東坊で、坊さんのお墓
のあった所で、お城山から威徳寺へ行く通り道にあった。
威徳寺へ行く坊さんや侍たちはこの寺で一服して、それか
ら舞台峠を越して威徳寺へ上ったもんや。よろいかぶとに
身をかため、足ふみならして通った鎌倉武士、深いまんじ
ゅう笠をかぶり、墨染の衣を着て白い脚絆に草鞋ばきで独
鈷を鳴らして通る坊さん、大なぎなたをかついで白い布を
頭に巻いた僧兵、美しく着かぎって黒い髪をたらし、駕籠
に乗った鎌倉の女御達、みんなこの寺にお賽銭を上げてお
参りして休んだもんや。威徳寺が大地震で倒れて焼けてし
まった日に、多聞寺も亡びてしまい、何処かよその国へ寺
の籍を売って廃寺になってしまった。
途中で、威徳寺に詣で、峠に舞台を設けて能狂言を催し、
一般民衆に観賞させた。それからの此の峠を舞台峠と呼ぶ
ようになったという。なお威徳寺は多くの寺領を有して勢
力を誇っていたが、天正十三年(一五八五)大地震の為に
倒れてしまったとも、兵火に罹って焼けてしまったともい
うが、今は僅かに礎石が残っているだけである。(六七五
頁)
133 越中志徴
(森田柿園編 富山新聞社 上巻 昭和26・10 下巻 昭
和27・3 上下合本復刻版 昭和48・5 一四六―一五
○頁)
木船村此地に木船明神之旧社あるに依て、地名を木船
と云。昔木船の城下なりし頃は、商家等多く有
て繁昌なる地なるが、天正十三年十一月地震にて城沈没
し、城主前田秀継君卒せられ、其男利秀明年今石動城へ遷
らる。依て此時木船の者挙て今石動へ移り、其より農家の
み残り今に至ると云。
同神異混見摘写巻十三に、越中木船城は今石動より一
里往還より東方也。天正の頃城主石黒左近秀吉
公に属すといへども、返逆の聞えあるより、京都へ被召
江州長浜駅にて一族郎等廿四人自害して滅亡に及ぶ程に、
一子死を遁れて金沢に来り、湯原と姓を改む。其後佐々平
左衛門居城、後前田右近秀継四万石を領し在城。然るに城
の麓に今五社村と云処に、木船明神の霊社有、右近秀継飼
犬と木船の神体をつなぎ合せ、水中に入れて戯れて曰、神
奇特あらば水中より上るべし。犬神に勝ば死を遁るべしと
云処に、犬は游きあがり、神の尊像は水中に沈む。其夜天
正十三年十一月廿九日大地震。山岳を崩し地裂て木船の城
を大地へふりこみ、城主右近将監殿夫婦等一時に卒去(号
永伝寺殿。今石動に寺あり。)城跡一町計、高く田畑の中
に残れり。其廻りの田、昔の堀跡也とて今に深し。元来木
船城地沢にてあはら地成しゆゑとぞ。木船村より三町計南
の方也。右近秀継子息を又次郎利秀と号し、今石動の城主
と成。文禄元年朝鮮の役に進発有しが半途にて煩出、帰城
有て卒去のよし。秀継の卒去は神木をきられしゆゑ、其咎
とも云ふ。(一四六頁)
木船城址古墟考に在糸岡郷木舟村領。城地は同郷岡村
の右にして平地也。今大半鋤為田畑。木丸迹
と呼処、僅方廿四間、如平岡。四辺深沼。要害の地也。旧
注には、本丸東西六十間、南北七十五間。二丸東西四十五
間、南北五十間。三丸東西三十間、南北六十間。塹跡三
重、繞り幅五十間・卅間・十五間と云。石黒太郎光弘の後
裔数世此城に居る。(歴主代々の名不伝。)天正二年七月謙
信甲士三万を帥ゐて、越中木船城を攻取と、北越太平記に
見ゆ。一書に、此時城主神保安芸守・石黒藤兵衛走る事見
ゆ。然ば神保も拠ると見ゆ。天正八年石黒左近蔵人成綱、
江州長浜にて信長公の為に誅せらる。成綱既に誅せらる後
は、此地自然と成政領と成りて、其将佐々平左衛門を此城
置くの処十三年国祖の弟秀継君之と数々戦ひて勝つ。同八
月に至りて成政此城を引取り、秀継君在城す。同十一月廿
九日地震。城塁崩沈陥地中三丈余、秀継君之が為に卒去
し、其男利秀明年今石動へ遷城す。(一四七頁)
木船大地震公卿補任。天正十四年条に、去年十一月廿
九日より大地震、当年春三月まで時々不
止。○当代記(第一章18)に、天正十三年十一月廿九日子
尅大地震。此時諸国山崩地裂中にも、北国如斬人馬多倒
死。云々。関東には此地震無之。○元和写本和漢合運図
(第二章6)○武徳大成記巻十三(第二章21)に、天正十
三年十一月二十九日大地震にて五畿内・東海道・東山道・
北陸道、神社仏寺民屋数多かたむき崩れ、圧れて死する者
幾千人と云数をしらず。大地さけて大水涌出、溺死する者
多し、明年二月の頃まで日々地震にて、其の上饑饉なれば
人々草の根をほり、海藻をひろひて糧とす。疫病はやりて
死する者多し。○多聞院日記(第一章16)。天正十三年十
一月晦日の条に、昨夜亥下刻に大地震。寺内築垣方々崩、
宝光院・慈恩院のづしも崩。昨夜より今朝迄震動不止。浅
猿々々。先年木沢左京亮生涯の年正月廿日に大地震。其以
来者去七月五日大地震也。何も昨夜のほど事々敷は無之。
帝尺動之、天下之物恠にて、昨夜当山以外鳴動。○続本朝
通鑑巻二百十四(第二章16)。天正十三年十一月丁酉朔乙
丑。地大震。京壬生地蔵堂倒。越中国木舟城沈于海。とあ
り。沈于海といふは非なり。○三壺記(第二章26)に、天
正十三年十一月廿七日に、殊之外なる大震にて、天地もわ
れてのく計に百千の雷のひゞきして木舟の城を三丈ばかり
ゆりしづめたり、家たをるゝ事数しらず。○菅君雑録(第
二章1)に、十一月廿七日越中大地震大地三丈計陥る。所々
破壊。同廿九日迄三日之間不止。廿九日夜に入て地震止
む。木船の城本丸・外廓不残震込、其形不見。城主右近主
及家人等城中の者一人も存命の者なし。此所往昔沼田にし
て、其底難知の地なりしを、砂小石等を以て埋之、漸く城
地に取立て築城たり。依て今此難あり。外よりも城地の動
く事至て強しと云へり。右近主忌日廿七日、或は廿八日・
廿九日、其実日正説不詳。○高徳公御夜話に、前田右近殿
は加賀つばたの城に、後は越中御手に入候て、きぶねの城
に御座候由。其後大地しんに右近殿御遠行候て、御子息又
次郎殿今石動城を御もち四万石御取候。那古屋陣路次より
煩出、御帰候て病死也。大納言様御兄弟の内に、右近殿と
は御中一入よく御座候由。つねに利家様御意被成、年寄衆
もかたり被申候事。○有沢永貞頭書(第二章42)に、木舟
城地震の事、天正十三年十一月廿七日也。大地震にて平山
城、平地と成也。城中の男女過半死亡。其年の秋より右近
殿木舟に移らるゝ由。○今石動本行寺貞享二年由来書に、
天正十三年十一月廿九日に大地震にて、木舟之城破裂、大
雪大水城中へ押入、右近様御夫婦一所に御死去被成刻、小
矢部川大水にて往来無御座候、木舟清僧之諸宗無御座に付
て、当寺第二世日長に御子息又次郎様より、御夫婦え御葬
礼之儀被仰付。云々。(一四八―一五〇頁)
136 蟹江町史
(蟹江町史編さん委員会編 愛知県海部郡蟹江町 昭和
48・3・25)
天正十一年(一五八三)二月におきた信長の三男信孝・柴
田勝家・滝川一益連合軍と羽柴秀吉との戦いで、秀吉に味
方した織田信雄は、尾張のほかに伊賀と北伊勢五郡を併せ
領することになり、清洲城から滝川一益の根拠地であった
長島城に居を移した。これ以後、小牧・長久手合戦後も、
天正十三年十一月末までは、引きつづいて長島城を本拠と
している。
信雄が長島城から清洲城へ戻ったのは、大震火災で長島城
が崩壊してしまったからである。『当代記』第一章18巻二
によると、天正十三年の十一月二十九日[子刻|ねのこく](午後十一時~
午前一時)に、北国から関西の広大な地域にわたる地震が
あり、諸国に山くずれや地われがひどく、人馬の被害がお
こり、この長島では陥没のため川になり、城山の家屋もた
おれて火災がおこり、茶湯の道具をとり出した者が、あと
で褒美をうけているといった有様であった。三河[深溝|ふこうず](愛
知県額田郡幸田町深溝)の領主松平家忠の『日記』による
と、亥刻(午後九時~午後十一時)というから、両者から
判断すると午後十一時ごろであろうか、大地震があって、
それ以後毎日、翌年の二月十一日まで連続七十二日間にわ
たり余震があった。この地震は大地震というだけでなく、
まれにみる長期地震でもあった。この大震火災を機として、
翌天正十四年からは信雄は清洲城に戻ったようである。
信雄が父祖以来ゆかりの深い清洲城をはなれて、長島城を
本拠としたのは、尾張一国の領主から、尾張・伊賀・北伊
勢五郡の領主になったので、その中央にあたる位置という
理由だけでないことは、今まで述べたところで充分であろ
う。
蟹江城は河口港をひかえているだけでなく、蟹江川その他
の近隣諸河川で尾張内陸平野部に通じている地点で、長島
城に近接し、また清洲城と長島城の中間にあたる位置でも
ある。蟹江城が長島城と敵対関係であれば、「[向城|むかいじろ]」・「[付|つけの]
[城|しろ]」として、長島攻撃の前線拠点となり、味方関係であれ
ば、「[端城|はじよう]」(支城)として、本城とともに唇歯輔車の間柄
になった。蟹江城自身は単なる端城ではなく、独立の本城
として自らも支城をもつほどの城でもあった。大野城(海
部郡佐屋町大野)・下市場城(蟹江町蟹江新田下市場)が
その支城にあたる。(五三―五四頁)
堤普請は火災による荒地復旧のためである。天正二十年八
月二日付けの『津島神主領目録』には、「ゆりこミ」(地震
による陥没)でなった永荒地が九十五町六反八畝二十六歩
(約九五〇ヘクタール)あり、三十町三反四畝二十三歩(約
三十ヘクタール)のうち、相当数の「はたふけ(畑腐化)」
がみられるから排水が極度に困難な状態であったことが知
られる。これは天正十三年十一月二十九日の大地震と七十
日以上におよぶ余震の結果であるが、それにくわえて天正
十四年六月の木曾川大洪水の被害もあった。これは河道を
変え、尾張の葉栗・中島・海西の三郡を分断し、美濃との
国境を変えるほどの大洪水であった。当時の領主であった
織田信雄も翌十五年正月ごろ、給人たちに堤防の修理を命
じているが、大規模な徹底した修復でなかった。(一七三―
一七四頁)
天正十三年十月二十九日大地震により大洪水おこる。(五
一七頁)
156 伊勢 長島城
(藤林明芳著 日本古城友の会 昭和50・9・5 一二―
一三頁)
織田信雄、豊臣秀次時代の長島城
滝川一益、織田信雄によつて修築なった長島城も、天正十
三年(一五八五)十一月二十九日の天正の大地震で本丸、
多門など倒潰し漸く石垣のみが残つたようであるが、天正
十九年(一五九一)関白秀次に命じて、石垣、塀、矢倉等
を修復した(長島細布第二章28)
古来の伝承に本城を一に二重城と称しているが、この天正
地震によつて本城は地盤沈下し、再修補によつてこの結構
の上に更に城郭を構築したので二重城と云つたのであろ
う。
現に城址長島中部小学校敷地の古井戸の底から巨材を構え
た巨石を並べた遺構があつたというが、或は当時の遺構で
はなかつたかとも思われる。
菅沼氏長島城を修(ママ)築する
天保年中松平定政の公府への訴状によると、
「天正年中地震殿守顚倒、其余大破壊而後、雖有再制僅不
及其手爾来城主力乏而代々零落、二ノ丸塀亦無何竹藪生
茂、然此城古来月(ママ)無扉門、於地方旅人夜日往還元」などを
以て見ると、定芳の長島城修復は根本的なものでなかつた
ようである。
出典 新収日本地震史料 補遺
ページ 67
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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