[未校訂]両浜といへは今でも松原の美を聯想する。今のものは元禄中
のものであるが、四百数十年前即明応震災以前のものは即ち
本当の安濃の松原である。即ち世搭川口南北辺一面並に之よ
り南に長く延ひて贄崎、阿漕より南米津浦あたりに古松の大
松原のあつたことゝ察せられる。(○中略)
この大地震による津市に関する記録は全くなく、只僅な口碑
のみに残つている。陸地の陥落したのは北南両浜共であら
う。但其幅は知れないか少なくとも幅十町余は落ちたと思は
れる。乙部中川原阿漕の所謂湊田も当時の浅き陥没の為であ
らう。現時の松原はそれ以来の砂丘であらう。勿論陥没は津
はかりてなく北方白塚町屋白子辺の海辺にも考へ得られる。
雑集記に
安のゝ松原は海岸と共に十八九町海底に崩れ、松の木末は
海面の浮草の如く、洪水後七十余年後まで海中に松木多く
残りあり云々。(○中略)
通俗に古昔の津の湊を推して現時の津両端から岬崎一里許り
も突出して之に松原かあつたと伝へているが是は信じられな
い説である。今考へて見るに、海岸清渚は現在よりも十数町
の海中まて存在し、極めて古代の河跡である現時の岩田川口
か幅も深さも一層よくて、古今の名高い湊は茲に存在したの
でないかと思ふ。勿論現時の安の川岩田川は結城神社南の字
元口と称する所に流れ出て居たと思はれる。こゝの海浜現在
より遠く尚十余町存在していたことは考古学上確実な事実で
あつて一点疑の余地がない。従つて之か現時の遠浅として存
在するものである。現時吾等か遠浅として水泳に限りなく喜
んでいる地は即ち其昔当地一帯に惨害を蒙らしめた明応震災
の遺跡であることを忘れてはならぬ。又先に県庁裏の断層を
この地震の遺物としたか、更に余は之を附言したい。それは
現時の柳山の台地と阿漕浦との間に格段な高低を認める。之
が陥落の境界線でないかと思ふことである。元より松原と津
町との間に安のゝ湊田のあつたことは古記に示す所である
が、現時阿漕浦に於ける湊田はこの余がいふ陥落線に画せら
れて明瞭になつているやうである。
(津観音の由来)
この漁夫の網によつて出現なつた観音像は浜人喜んで之を一
の御厨に奉祀して信仰怠りなかつたとの事である。この事や
がてその奇瑞叡聞に達し勅によつて其の一の御厨の傍に伽藍
を御造立になつたと伝へている。その場所は今どこであるか
は明白ではないが、今の贄崎附近の事であつたであらうか。
しかし是は今より凡四百年前明応の大地震によつて海中に落
ちてしまつたものであつて、之を実地に索むる事は不可能で
あらう。此後この寺を移したのか今の観音境内であらう。