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項目 内容
ID J2200286
西暦(綱文)
(ユリウス暦)
1498/09/11
西暦(綱文)
(先発グレゴリオ暦)
1498/09/20
和暦 明応七年八月二十五日
綱文 明応七年八月二十五日(一四九八・九・二〇)
書名 〔伝説の津市〕T14 鈴木敏雄著▽
本文
[未校訂]両浜といへは今でも松原の美を聯想する。今のものは元禄中
のものであるが、四百数十年前即明応震災以前のものは即ち
本当の安濃の松原である。即ち世搭川口南北辺一面並に之よ
り南に長く延ひて贄崎、阿漕より南米津浦あたりに古松の大
松原のあつたことゝ察せられる。(○中略)
この大地震による津市に関する記録は全くなく、只僅な口碑
のみに残つている。陸地の陥落したのは北南両浜共であら
う。但其幅は知れないか少なくとも幅十町余は落ちたと思は
れる。乙部中川原阿漕の所謂湊田も当時の浅き陥没の為であ
らう。現時の松原はそれ以来の砂丘であらう。勿論陥没は津
はかりてなく北方白塚町屋白子辺の海辺にも考へ得られる。
雑集記に
安のゝ松原は海岸と共に十八九町海底に崩れ、松の木末は
海面の浮草の如く、洪水後七十余年後まで海中に松木多く
残りあり云々。(○中略)
通俗に古昔の津の湊を推して現時の津両端から岬崎一里許り
も突出して之に松原かあつたと伝へているが是は信じられな
い説である。今考へて見るに、海岸清渚は現在よりも十数町
の海中まて存在し、極めて古代の河跡である現時の岩田川口
か幅も深さも一層よくて、古今の名高い湊は茲に存在したの
でないかと思ふ。勿論現時の安の川岩田川は結城神社南の字
元口と称する所に流れ出て居たと思はれる。こゝの海浜現在
より遠く尚十余町存在していたことは考古学上確実な事実で
あつて一点疑の余地がない。従つて之か現時の遠浅として存
在するものである。現時吾等か遠浅として水泳に限りなく喜
んでいる地は即ち其昔当地一帯に惨害を蒙らしめた明応震災
の遺跡であることを忘れてはならぬ。又先に県庁裏の断層を
この地震の遺物としたか、更に余は之を附言したい。それは
現時の柳山の台地と阿漕浦との間に格段な高低を認める。之
が陥落の境界線でないかと思ふことである。元より松原と津
町との間に安のゝ湊田のあつたことは古記に示す所である
が、現時阿漕浦に於ける湊田はこの余がいふ陥落線に画せら
れて明瞭になつているやうである。
(津観音の由来)
この漁夫の網によつて出現なつた観音像は浜人喜んで之を一
の御厨に奉祀して信仰怠りなかつたとの事である。この事や
がてその奇瑞叡聞に達し勅によつて其の一の御厨の傍に伽藍
を御造立になつたと伝へている。その場所は今どこであるか
は明白ではないが、今の贄崎附近の事であつたであらうか。
しかし是は今より凡四百年前明応の大地震によつて海中に落
ちてしまつたものであつて、之を実地に索むる事は不可能で
あらう。此後この寺を移したのか今の観音境内であらう。
出典 新収日本地震史料 補遺
ページ 48
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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