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項目 内容
ID J2100353
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信濃・越後西部〕
書名 〔蛭川村史〕○岐阜県S49・3・30 蛭川村史編さん委員会
本文
[未校訂]また弘化四年(一八四七)の信州善光寺地震は信州で多くの
死者を出し、この地方でも道路や宅地に亀裂ができたり陥没
があったと一白川町史」にみられる。おそらくこの時は蛭川
でも地勢や距離からみて同様な被害があったと思われる。阿
木の一吉村庄屋の日記一は次のように記している。
『弘化四丁未年三月廿四日亥刻頃信州善光寺地震にて大半
家潰れ、当時善光寺開帳にて諸国より参詣の者など、死人
数知れず、怪我人は勿論前代未聞の大変なり、此時更科郡
山平林村辺岩倉山半面犀川へ抜け込み、参拾丁余と八拾丁
余と、二ケ所[押埋堰留|おしうめせきとめ]に相成、追々数十丈堰留候処、四月
十三日夕七ツ頃大いに鳴動して、一時に大川へ押出し、数
十ケ村水底に相成り真田様御領大変々々、此外同国中野御
代官高木清左衛門様御支配所、此時大地震にて潰家死人数
知れず大変々々、此時当村も其刻頃地震にて壁など少しひ
び入り申候』
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻6-2
ページ 1829
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 岐阜
市区町村 蛭川【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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