[未校訂]同四年丁未三月廿四日夜四ツ時、地大に震ひ、其の後震動し
て止まざること一週間、人々恐怖して、堤上又は竹林中に、掘
立小置を搆ひて之に起臥す、太田島の小牧の如きは、家財を
悉く高処に運搬す、是の震動に家屋土蔵の壁にして、亀裂を
生ぜざるはなく、外丸村樽田の字池田の山、崩壊し、新座の
字藤つるしといふ処、幅三四尺、深さ四五尺、長さ二三十間
に亘る、震裂を生じたり、此の震善光寺を以て震源地とし、
世に善光寺地震と称す、是の時信濃虚空蔵山、殆ど全部崩頽
して、犀川を壅塞湛水すること二旬、其の間幾十丈の洪水、
将に至らんとすと、浮説紛々として、人心恟々たり、果して
四月十四日の朝より、水量俄に漲溢し、家材器具に、人畜の
死屍を混じて、流下し来ること間断なし、当時十日町陣屋、
郡内庄屋をして、地元役所に照会せしむ。
乍恐以書附奉願上候
会津御領越後国魚沼郡総代高山村
庄屋 名右衛門
今般大地震ニ際シ、貴国犀川入ノ山岳頽隕シ、千曲川塞沮
候趣、其涓流、去ル十三日ヨリ洪水ニ付、拙郡水害夥敷、且
江戸表廻米、長岡蔵積、洋溢ノ為メ、多分濡米相成候旨、
通知ニ付、廻米川下ケ見合候外無之、就者右場所見届ノ
上、如何ニモ取斗可然義ト、役所ヨリ被仰付候ニ付、罷越
候間、該場所見届之義、被仰付被下置度、奉願上候 以上
未四月十八日 右庄屋 名右衛門
松代御城下
御役所
右に付松代役所にては、竹村金吾、岡嶋庄蔵出張し、清左衛
門に案内せしむ、因に云、是の歳三月十日より、五十日間
は、善光寺の開扉なれば、四方より陸続群をなして参集す
る、老若男女の賽者は、其の数を知らず、然るに俄然此の震
災に遭ひ、震倒する宿坊三十六院、町家三千戸に過ぎ、火十
七ケ所より起りて圧死焚死するもの、町人七千七百人、賽者
一万五千八百人と称す、当時の狂歌に、
三とせあまり浅間の煙立やらて
信濃越路のなゐのはけしさ