[未校訂](めずらしい郷土の地震の記録)
昭和四十六年二月二十六日早朝、当地としてはめずらしい上
下動の地震があった。非常に短かったので、外へ逃げ出さ
ずに済んだ。しかし、あとでわかったことだが、この地震は
上越各地に相当の被害を出していたのである。過去にいくつ
かの地震があったが、震源地が遠いせいか、棚のものが落ち
るという事はない。しかるにこの地震は、私の寺の本堂の白
壁にき裂が入り、墓地のコンクリート塀を三十メートルも崩
壊せしめた。昔から当地方にあった、地震の記録は、『直江
津町史』災害編にも出ているが、今ここで紹介するのは、弘
化四年の善光寺地震の記録を私の寺の住職智亮が過去帳に書
き残したものである。
これは、東京大学の元地震学教室の理学博士河角先生が見ら
れて、その当時の体験者の筆録としては、貴重なものだと言
われた事を付記しておく。(原文のまま)
地震一条左に知らす。然れば三月二十四日夜四ツ時(午
後十時)少々前、一陣の風のごとく吹き来る声[夥|はなはた]しくし
て直ぐ様震え来る。
その有様、天地も混ずるかと覚え候。その間やや暫くにし
て諸人歩行ならざるゆえ唯だ天地に号叫するのみ。[豈|あに]にこ
の難、何に[喩|たと]えん、逢わざるものこれを知らざるべし。
さてその夜四ツ時(午後十時)夜明けに至るまでに大いに
震うこと三度、小なるもの数数来る故、諸人、魂を身にお
かず芒然の有様なり。次の日在々、町々仮屋を掛け[捨家|しやけ][棄|き]
[欲|よく]の[相殊|すがた]勝にも見え候。さりながら茅屋の仮屋粉乱たり。
憐むべし。なかんづく国郡、地震甚だしく信州善光寺にて
これ又御開帳のこと故、諸国より参詣夥しく候ゆえ処の住
人の者は勿論、他国の者まで数千人、右災害のために死人
その数を知らず委細はこれを略す。後来聞き伝うべし。さ
て同国飯山城ならびに稲荷山駅、山中新町、牟礼宿ほか町
々在々或は大或は小、記すにいとまあらず、当国高田城は
中位にてつぶれ等の家なし。破損処々甚だし。その他郡
中、今保村七十余軒つぶれ針村等みなみな破損甚しく今町
(直江津)当所(塩浜町―中央五丁目)は右に順ず。さて
それより二十九日まで度々震え少々づつに候。然るところ
同二十九日正昼、九ツ時(正午頃)又々大地震来る。その
来ること前に同じくして震うことはなはだ厳し。
天地混乱して滅するが如し。しかるに、この時当村、全壊
の家十三戸、半壊二十一戸、その余は破損夥し。さて寺
(筆者)は半壊の仲間にて御領主より下され候ものは全壊
の者へ米一俵、半壊の者へ米半俵ならびに[金子|きんす]一歩二朱、
一歩づつお貸し付けにて年三度にお取り立てにて、その後
年中地震あるいは大、あるいは小その中七月十二日晩六ツ
半、十九日夜九ツ時(午前0時頃)、後ち右は相応に震えそ
の後は明年まで小々づつたびたび地震来り人命もちぢむか
と思われ候。
地震には、火事はつきものだが、「三月二十九日の地震のさ
い、新川端町伝左衛門方より出火。折悪しく、北東の風強
く、ついに九百五十七軒を焼失す」と別記にある。
大地震と大火災を同時に受けた、当時の人々の恐怖と悲嘆の
心中はいかばかりかと、察するに余りある。
以上のように、地震の恐ろしさをいろいろと当時の言葉で表
現しているが「会わざるものこれを知らず」で、いかに恐ろ
しい事であったろうと想像されるのである。
なお、当地では大正十二年九月一日の関東大地震と昭和三十
九年六月十六日新潟地震との震度は大体同じ程度と思われ、
明治三十八年八月の地震も余震がたびたびあって、子供心に
恐ろしく感じたことが思い出される。また大正三年十二月十
五日夜の地震も、震度などの事はわからぬが震源地が近かっ
たためか、本堂の白壁にき烈が入り棚の物なども落ちたこと
を付記しておく。
当地は、善光寺地震以来百二十余年も大地震が無かったこと
は、幸福のようではあるが、もしこの次にあるとすれば、と
常に油断無きよう心がけが必要の事と思われる。
(竜泉寺文書)
弘化元年(一八四四)の通称一ダボ八火事」と弘化四年の
「善光寺地震」について『竜泉寺文書』に記されているので
ここに転載する事にした。
慈雲山竜泉寺十六世之を記し置き候
一天保五午五月馬屋村普泉寺より観音寺へ移転仕り其節、
本堂之無く、尤も前より普請企て之有り、然れば檀中一統
相談仕り、八月より普請に取りかかり同暦末六日本堂成就
仕り、其の暮より亦々企て申年春、観音堂、庫裡残らず成
就仕り、砂持ち雑入用共、金高八百五十両余相掛り候。天
保十一子年二月当寺引き移り候所、諸堂悉く零落仕り候
故、殊更地窪に候間、皆々零落仕る。依て、普請企て庫裡
再建に就き、第一地形(砂)八尺(二・五メートル)持ち、
庫裡成就仕る。同暦卯歳まで廊下相建て同暮れまで造作残
らず出来相済む。尤も地中残らず墓所まで砂持候へば、雑
用金相増し凡そ弐百両余り相かかり候。然る所同暦、辰二
月二日夜、新坂井小名郷津町(中央四丁目)、より出火仕り
此の時大西風、古今稀れなる大大風にて町中残らず焼失仕
り候。寺は八ケ寺、焼け残り候所は新坂井[江津|ごうづ]町北側、新
横町。焼け残った寺は当寺(竜泉寺)及観音寺、延寿寺の
三ケ寺(真行寺は塩屋新田村で町に入らなかった)然ると
ころ同六日、夜半の頃、新本砂山小名安楽町より又出火仕
り風は下ダシ(北)又々不定大風にて右残り候処の安楽
町、新横町、十軒町、右三ケ寺皆々焼失仕り、先の二日の
焼け候者共、檀中は申すに及ばず縁借、無縁の者まで宿借
入り込み候故、拙寺丸焼。残り候品。本尊、観音尊、誕生
仏、鐘、磬子、木魚並に簞笥二つ、長持一つ、銭箱二つ右
の品計り残り、拙者始め弟子等[丸肌|まるはだか]に相成候。さてまた糸
魚川より古家、早速相求め買格四十五両、七月家移りまで
都合九十五両相かかり候。[更|さ]れ共、弘化四年三月二十四日
夜四ツ時(午後十時)頃、古今稀なる大地震いり当所並に
在々少々づつ倒れ併しながら当所寺院、町家とも家は無
難、信州善光寺、稲荷山その他各々、近辺大破仕り、同月
二十九日昼九ツ時(正午頃)頃、亦々大地震、此時当寺庫
裡柱二十一本折れ、町、在とも皆小小宛是の如し。然るに
同日、大下ダシ風にて新川端町より出火仕り、出村、川
端、片原、中、中島、裏砂山、本砂山、坂井、新坂井、新
町の上町半分残り、寄町上半分残り、林覚寺、聴信寺、延
命寺焼失仕り候。(地震火事と云う)
記録によると焼失戸数は
ダボ八火事 一二〇三戸
二回目火事 八五戸
地震火事 九五七戸
(註)
右記録により現在竜泉寺の南側に林覚寺の墓地があって
非常に低くなっているが本堂建立の際相当に土砂を埋め
立てたのが解る。即ちその頃竜泉寺の本堂以南は湿地帯
であり所所に水溜りもあり全く原野に等しかったのであ
る。