[未校訂](注、A-2、13と同文。省略)
三月廿四日夜、丹波川上八九里程ニ而山崩致し、丹波川筋水
多ハ切流水一切途切乾居候、此川上水溢凡八九丈之高水、四
月朔日ニは又々大地震有之、所々山々崩レ此時溢レ高サ拾壱
丈余ニ相成、近辺昼夜高山之住居致、川下筋善光寺往還筋皆
々其在々高山江持登セ昼夜野臥致し居候処、四月十一日十二
日頃より丹波川筋江水少々宛流出候ゆへ、領主御支配方江相
届、川上切所も有之哉、右夫々差図被下置御役人、村役銘々
人歩召連、其支配所水流道造居候処、十三日申刻川上切一時
流水増来り人歩諸役人弐丈三丈之高山江登り候処、流水高サ
凡四五丈ニも相成一時ニ押来り、右高山ニ住居致居候村々男
女并郡役ニ出勤之役人其外歩役ニ至る迄不残一時ニ流レ死人
夥敷候追々相調へ可申上候 以上
四月十五日 御代官
川上金吾助
(注、A-1、8と同文の箇所は省略)
三月廿四日夜四ツ時地震山崩水溜り栃沢村江御出役水増御改
四月朔日朝五ツ時ゟ同四日七ツ時迄
壱丈八尺四寸
同五日七ツ時御改 四尺九寸増水
同六日同断 四尺七寸同
同七日同断 四尺七寸同
〆三丈弐尺五寸絵図面出来候時也
同八日七ツ時御改 四尺弐寸増水
同九日同断 四尺九寸同
同十日同断 八尺八寸同
但し雨天ニ付
同十一日七ツ時御改七尺壱寸増水
同十二日同断 六尺同
同十三日同断 三尺五寸同
〆
惣丈七丈四尺壱寸高水ニ相成、此改場栃沢村と申ハ渇(濁か)り
候場所ゟ六里川上にて、新町辺ニ而何十丈とも不知
但十三目七ツ時ニ切れ申候、川中嶋、善光寺江水押出
し申候
前文略之当地地震未不止、今朝も四五
度随分大キ成事、其後毎日五六度或ハ四五度ツゝ御座候
又十三日七ツ時大変出来仕候、先便も申上候通丹波川歩行渡
ニ而水無之候所、追々少く候ハゝ水口相付舟一艘ニ而相渡候
故安心仕、中々以之山崩故容易ニ水も多分不参哉大丈夫ニ而
御座候処、当古前代未聞之大風雨ニ而大木吹折、殊之外大荒ニ
御座候、引続雨天ニ而河水日々相満、丹波川上小市笹原山崩
ニ而、松本近辺迄十里余も湖水ニ相成、大海ニ不及姿ニ相成、
一同難渋日日相嵩当惑至極、諸社祈禱神仏之加護を祈候処当
国一之宮諏訪大明神之神主を松代真田様へ御頼御祈念有之候
処、十三日ニは川明可申哉御神恵ニ付、十三日七時ゟ山上(カ)り
十八九丁も水登り、夜五ツ時頃迄ニ湖水一円ニ水引申し以前
之平水ニ相成、誠ニ神徳之印如何斗難有明神の助護と一入
申触候、右水口山崩落彼之川中嶋へ落込候処、丹波川へハ中
々水納り不申平一面之河と相成、川幅凡三里斗ニ而水押流
し、善光寺川中嶋平一面満水ニ而家不残流、誠ニ死人ハ数不
知、先達而之地震之節之死人ゟも十倍ニも相及可申哉之大変
ニ御座候、夫ゟ平一面之水ニ相成飯山御城内江押入、越後境
ゟ越後の国へ水入、小千谷十日町辺平一面大満水、長岡并新
潟表江水入大満水莫太之事、中々筆ニは難書写次第ニ御座候、
此度信濃国之大変誠之咄ゟ大成事ニ御座候、右申上候十里之
間湖水ニ而村々水底ニ相成数百余ケ村ニ御座候、然るに廿四
日五半時頃ゟ当十二日七ツ時迄之間十九日之間信濃川之水溜
り大海之如く御座候処、三日之間ニ不残水引候故、其音雷ゟ
大キク天地も一同ニ相成事かと奉存候、丹波嶋辺川中嶋善光
寺辺、松代中野須坂飯山平一面大海ニ相成、水ニ而家々流レ
不残水死仕候儀神武帝以後珍敷事ニ候、其外善光寺参り并ニ
北国筋往来ニ而死人、通行之旅人死し候事数不知夥敷、天災
ニ御座候、此度之水難信濃之国之山方ニ而場広之所ニ御座候
得共、廿万石余之田地潰し申候、中々筆ニ難書記荒々申上候
以上
未四月十六日 松本
角田利兵衛
岩七
小出御店
儀七様
半兵衛様
参る
一説
一藤屋平左衛門方 死人〆三百五拾人
一和田(綿カ)屋仁左衛門方同三百廿人
一藤屋平五郎方 同弐百三拾人
一藤屋 いかりや 嶋田屋 中田屋 紀伊国屋 市川屋
右家数六軒にて死人六百九拾人
一権堂村女郎屋ニ而女郎死人百八十人
右之外旅人所不知数不知(ママ)凡死人三万人余町ハ西町東町い
セ町横町かん(岩石)関横沢田町不残焼
一善光寺柏屋と云者、家内常々善心ニ而候処今度大地震ニ
而皆々崩れ候共、此家内之者壱人も怪我無之
(中略)
三月廿四日信州青柳宿泊之処、夜四時頃大地震、東へ多分震、
夫ゟ暁迄震ひ詰旅籠屋家内等大震済候迄一同漸々門江出、野
宿一夜臥り候者更ニ無之驚怖之躰ニ而一夜を明し候由
但大震之節誰壱人として口開者無之由
一〓ミ(麻積) 何等故障無之候へ共同様ゆすり候由
一稲荷山 宿屋不残焼失、死人数不知、丸屋と申旅籠屋ニ而
六十人程即死
間の宿
一追分 是も不残潰屋ニ相成死人ハ無之由
一丹波嶋是ハ潰家一向不相見、焼亡之よしも無之由
一丹波川 干上り川留り水ハ足首迄程之水にて、自身に渡り
越申候、川上之様子不相分
一善光寺 本堂并山門宿坊大勧進残り其余宿坊旅籠屋不残潰
家焼失 但坊町数之程□(聢カ)と不存候
本堂へ籠居候者七百人余程之由ニ付、是ハ助命仕候由、
坊中旅籠屋ニ而死失候者凡千五百人程書上候由ニは候得
共、壱万人余も死候者所々ニ而噂ニ御座候
一同所本堂ニ白幕張有之、参詣留同様ニ而空く下堂仕候由
一屋代川舟渡之所干上り川留、翌廿五日上田泊ニ御座候処、
夜四ツ時過迄間もなく震ひ返し同様ニ覚申候
一追分より川留ニ付、田舎道江かゝり桑原と申むらへ来候
処、右村も不残潰家ニ相成居八幡ニ而ハ家数三百七八十軒
之家数之所不残潰家ニ相成候由、死人十五六人程有之
一猿か万場峠にて尾州知多郡之者之由ニ而廿五人連之内三人
助命、同所にて行逢申候
一上戸倉村宿先と申候山、岩数不知、震ひ落し山崩同様、大
岩根引にて山下江落申候樹木更ニ無之、真の岩山ニ而御座
候
一善光寺稲荷山丹波しま辺之地割候所数不知破レ候、一尺五
六寸程も之巾ニ而深サ三尺余位も有之泥吹出し居申候
一信州松代城下潰家多有之、城内櫓三ケ所程ハ潰候よし、途
中ニ而承申候
一犀川ハ川幅三町程信州鎗ケ獄深(ママ、源カ)ニ而南江十五里程流れ、木曾奥
名川江落、夫より東へ九里程北江十八里十九里流、善光寺
丹波川へ出る、今度右丹波川ゟ三里程奥ニ候而川留一里程之間堰
留ハ岩込候訳ニは無之山湧出候様ニ相見候由なり溜永初ハ壱尺以上日々相増候処後にハ四五寸程以上増水相成候よし幅
四里奥八里程、水高六七丈、右水内相成候村々真田松本上
田小諸飯山領知ニ付、右五大名立会ニ而水落掘かけ普請中
之処、不思方江切込、役人初人足共千人余流失候由、此水
越後之海江落込迄ハ廿里程有之由
一信州之内飯山ハ此度騒動之□ニ而善光寺ハ四番目のよし家中并百姓
等之内十人程生残り候迄にて、殿も行方不相分由
一真田領新町ハ山間ニ而家数三百軒余五百軒ともいふ商家多く大商
人有之、繁昌之処双方の山崩れ相埋ニ成離れ居候、家纔ニ
弐三軒相残候由
一越後之国ハ津浪にて死亡多く、高田殿も行方不相分候由、
是ハ下評ニ而不慥趣
右之通信州付知(ママ)村庄屋申聞候由
(注、「史料」第三巻七六八頁下左二行以下と同文につき省略。但第三番は欠、第五番「中山八宿」のあとに「同日潰レ、関川御関所同断、同所川橋落候」が入る)
大坂心斉橋之辺に[河内|カハチ]屋某と言書林有、此者三人連ニ而江戸
へ商ひがてら信州善光寺江参詣せんとて、三月廿四日稲荷山
と言宿ニ至り旅宿なせし処、四ツ時頃既に一睡したる程に、
大に音して地震すさましき故、是ハとて起なんとして同勢の
者を呼候、一人ハ返事したり、扨あるところ上にも横にも何
か手ニあたる与(ママ)と思ひよく〳〵さくれハ、家ハ既ニ倒れたる
也、周章てやふ〳〵匍出て、壁の崩れたる所を其壁土を腹の
下へかきのけて外へ出たり、是ハ大キなる音に取込て家の倒
れたるを覚へさりしと見へたり、尤此者ハ二階に在し由、扨
彼先にはい出たるハ河内屋ニ而、其後よりつゝいて壱人の連
も遁れ出たるに、今壱人の者出デ来ぬ故、破れたる穴より又
さぐりたるに、人ハ得求めず荷物が手に当りたる故是を取出
したる処へ、向ふの所ゟ壱人の男繻絆一枚ニ而出て来る、誰
そと声かくれハ、三州の者なり、九人の同勢之所私壱人のが
れ出たる由を云、さらハ諸共に此所を立退むと夫よりうち連
立て都合三人と成、其夜ハ近辺の山とやらんにて明せしとな
り、扨暁になるや否其所を出立して三州の者と打連こなたへ
はせ帰り、幾日の日にて有之やらん、当国名古屋を通り玉屋
町近江屋と言に旅宿せし時、其地の様躰を物語せしが、トん
と名古屋ニ而信州の異変の知れたる初発なる由、此物語によ
りて絵図を板行し此節売歩行、其図前々出ス
此河内屋事、壱人の連ハ失ひつれ共、幸ひニ荷物索得た
る故着替路銀の類手支せず、且三河の者にも衣類をあた
へ暫く道宜りなれは一所ニ名古屋へかへりて行れ候へ、
路用ハとゝのへ遣ハすへしとて当所へ三人連にて来り候
処、三河の者ハ多くの連を失ひし事故兎角休息をもせず
急キにいそぎて国元へ帰り行しと云、此咄近江屋ゟ直ニ
聞たるとて琵琶師が物語せしよしにて記す
一此変事なき前に善光寺開帳之由書記したる建札故なくして
倒れたる処、何故に歟と建起したる、夜又倒れぬ、是にて
人々不審の心をなせし由専風説有、此事ハ地震なき以前信
州松本の士当国古渡東輪寺へ来りし時物語して奇異之由申
たる事を聞く実事成へし
一信濃に犀川有、善光寺と丹波嶋の間に流るゝ故丹波川とも
言にや、此丹波川甚急流之由、然処地震にて水源の山崩此
川の水留り果て、今でハ歩行渡に成りし由、常ハ舟渡しに
て尤気遣に成程と言
一右地震後、猿か馬場と哉境にて役人共出張参詣之者を通路
させず、下向之者も荷物を改候由、且何ぞかぞ施行も有よ
しニ候、然共街談巷説とかくにて、何を是とか定むる事か
たし
一押切之人の物語に、此日片髪をもやし繻絆の長キやうなる
物を着したる者通行せしを人有て尋ねしかハ、信州にて大
難に遇同勢をも失ひ身も如此成躰なるよし儀をこほし物語
なしたりと言、又柳町の人言にハ、彼辺にて三四人死亡之
様子ニ而只今六人懸りにて尋ねに行、未帰らぬゆへ如何共
不知と言、門前町ニ而河嘉といふ者、戌亥屋と云者銘々弐
三人連にて参詣し変異に遇たれ共幸して免かれ帰れり、新
川七本松之者町家の相応の身躰の者の供して宰相と成参詣
したる所、此大変に出あいて荷物路銀不残焼失、主人数人
を松本ニ留置て此者壱人夜を日に継てはせ帰り、直に路用
衣類を整へて又向ひニ出立したる由を聞、長者町医師村瀬
立斉も彼夜大変に逢て何方へか身を遁れたるを、当地にて
ハ死亡せしとしたり、其後直々音信ありて無恙由家内にて
も承知し悦ひたると云咄も有ハ、連を失ひ定而即死せしな
らんと家へ告来りたり思ひの不身を全ふして帰るもありさ
れハ、当国にて多く死亡ハあらさるへし、然共十が二ハ叶
わす危からむ、都之人毎に物語よりハ事大なるよしをいへ
ハ余程の地震ならん
一松本の御城下地裂て泥吹出したりと也、且善光寺より二日
路こなたにても地震ハ大なりしと言
一此日京都に有し者帰り来ての話説にいかさま地震ハ少く又
候なれ共、いつも有程の事ニ而しらさりし者も有之程とぞ、
此地ニ比ふれハ猶小なりしと見ゆ、此夜予ハ当番ニ而庁に
有しか、近年終ニ不覚程にハ有けれとさりとてさしも恐る
ゝ程の事にも非す小にして程久しき地震なりし
一駿河町蚊横町(ママ)の人服部広吉か母同勢三人にて、信州善光寺
へ参詣申候、去月廿四日彼地へ着し其夜同道のものハ本堂
ニ通夜致したるに、広吉か母ハ宿坊ニ泊りて既に床に付た
る頃大地鳴動して、大ニ地震発するよふニ思ふや否、はや
家居ハ倒伏たりされ共幸身に怪我ハなし、驚キ周章当りま
かせに探り廻し幸にして少々の物のやふれたる所有之、首
ハ出れとも胴躰出かたし、兎角してそこを出たれハ屋根の
上なり、夜ハ闇きに婦人の事なり踏もならハぬ萱屋のうへ
をはい伏て横につたひ瓦葺の所の端の方に至りたれハ材木
をつミたるところ有、是へ乗うつりて漸地上へハ下りたり、
供の男も同しく続きて出たるが、屈竟の男にて瓦の上を安
して走り来るとて思ハす強く踏たりけん、上りて落ると其
儘瓦がら〳〵と落ける音せし時、彼男鳴呼しまつたりと声
せし故、怪我せしならんと其時広吉母思ひしに存外大過も
なく溝の中とやらんへ落たるがたすかりけるとなり、扨広
吉母ハそこより本堂まで余程ある所を、ころひ倒つゝ走り
行道に本堂の前通り敷石の所に人多くころひたおれ気絶の
者も有様子なりしと由候勢をきらし倒れたるもの也本堂の
中にも燈明なと落ひろごりてうか〳〵と足跡もなしぬほと
なり、内陣に至るに人至て少し、彼古来ゟ消る事なき、常燈
明も二基有所ひとつハはや消失てうす闇く心細きに、地震
ハ猶そろ〳〵とゆりて有、其内に人も数そろひたり、法師あ
ちこち立振舞ありきし程に、本尊を取出しぬと見えて御戸
帳ひら〳〵とせし由、やかて法師等大ニ声揚て最早爰ハ[澗|アブ]
かしなし出よ〳〵と言故是迄ハ出るな爰にぢつちりして居れと言ひし由ばら〳〵と
走り出して東門を出て烟有芝原の所に足を止メ人数わなゝ
き居りしとそ、其様の哀なる事、繻半壱枚の者も有、裸の
者さへ有之、ふるへつゝ居るも哀なから、火の中に焼死す
る者にたとへてハ大なる幸なり、なきさけぶ声ハ天地を動
かし、恐ろしく、浅ましくなと、言も愚かなりと聞く、此
所にて、同勢の者と一緒に夜を明し、直様、畑をつたひ、
或ハ堤を行に、一尺位口明たる所数ケ所有て、肝をひやす
事とも也、今朝死人のもゆる臭気絶かたくけふりハ風に靡
きていぶせきいふ斗なし、人々大ニどよミて善光寺より一
里斗り間ハ只早く逃よ〳〵又地震発するとよバわりて気を
もむ事大方ならす有しとぞ、終に広吉母一同勢不残無難に
帰りての物語如此とぞ(注、絵図省略)
(注、〔日乗〕にある上田領の被害及び、「史料」第三巻八六一頁下八行以下にある文書の部分など省略)
拙者在所越後国三嶋郡与板城下濃川(ママ信欠カ)当四月十四日巳刻頃ゟ急
満水ニ而、平水ゟ壱丈程相増同郡牧野備前守殿領分仁ケ村地
所之土手并拙者領分本与板村土手共所々押切、構内并城下東
町江込水押入、翌十五日申刻過迄ニ追々水引落申候、尤居所
無別条人馬怪我等無之旨、彼地ニ差置候家来共ゟ申越候ニ付
此段御届申上候
六月五日 井伊兵部少輔
○当国之者善光寺ニて死せし者存外少くよし予か聞しハ九牛
か一毛ならんか
袋町ふしミ丁東江入
畳屋仙蔵女房
玉屋丁
あつまや清助下男
桜ノ町乗屋丁東へ入南側
米屋甚助
新長屋
大平や一家内
片端筋東坂下刀屋
三河屋八左衛門
同伯母聟壱人死中橋宿江住居伯母と
荷物之男ハ無難にて戻りし由
上宿江川橋
米屋孫助妻
同
すしや忠助妻
上宿どろ丁
鍵屋弥一夫婦
米屋孫助、すしや忠助両人妻相果候由聞早速出立して
尋ね行し所、死骸ハ山程有共我女房と定る事出来な
く、両人大ニ困れ共、仕方なく忠助帰らんといふに、
米屋孫助壱人われハ此死骸の山程積有候所に一夜通夜
する間、貴様ハ宿へ着して待給へとた(ママ)り、壱人右死骸
の有所ニ残れハ、忠助ハ壱人旅籠屋へ帰りし所、夜四
ツ過頃右孫助帰り来りていふよふ、只今迄通夜せし、
大ニ安心して戻りしと云、忠助いへるハ何よふ安心し
て戻られしと言に、孫助いふよふわれ久しく添し女房
の知れぬ事ハよもやあるまいと存ぜしに、この如く死
骸山のことくにて如何共定メかたく仍て一心に祈誓を
かけて只今迄通夜セし也、其通夜の心得ハ善光寺へ参
詣して変死なれ共死せる事なれハまよふ事ハよもや有
まじ、然れども若まよい居らハ予今宵爰にあれハ其事
を知らせに出よ、法事供養してやらんと心ニ誓ひて今
迄有しに、何事もなく全く成仏せしにうたがひなしと
思ふなり、四ツ過にもなれバ何かおそろしく成、最早心
に済し故戻りしといひしとそ実ニ面白きすまし□
評判有之候
○熱田神領者ハ壱人も怪我なく、多分参詣して有しかとも無
難にて戻申候て、四月十五日ゟ右御礼として欠馬を献して
右神宮毎日振合し也○茶屋町御箔屋治郎左衛門妻治郎左衛門俳名薫梨と云本町壱丁目三河
屋弥吉夫婦弥吉狂歌を詠し狂名錦葡堂亜紅供壱人廿三日善光寺、廿四日
戸隠本坊、廿五日焼地にて山中本尊の側に野宿して空腹に
て、廿六日丹波川走り渡り、右同日茶屋町小嶋屋後家こな
たから丹波川へ到着して役人に留られ得不参して打つれて
帰り来る由四月三日着茶屋町本町ゟ迎ひとして大勢出しとそ御膳籠七荷とやら行しと由、其物入大そう成事なるべし
○伝馬町御園町西北角今津屋市郎兵衛と言筆屋予か知己にて聞しに、廿四日夜善光寺御堂に通夜せしに、五ツ半頃にや何方にてか太鼓をたゝき御勤をする様子にて、夫ゟしバらく
して又[螺|ホラ]貝を吹御勤をするよふニ思われ、是ハ定而山伏抔
の参詣せし事にやと思ひし所ニ、俄ニ天井の□ての音すさ
まじく真ツ黒かりと成て何事にや知らす御互ひにあちこち
と押入りていまた地震といふ事をしらず、其内ニ三ツ目斗
の所にや地震なるべしと誰いふとなくいひ出しおの〳〵念
仏大音にて申せしに、真ツくらがりゆへに弟子坊主にや燈
をとぼし来り候へ共、中〳〵燭台等に立置事出来ず、自身
にとぼしたる蠟燭を持て立り、夫ゟミな〳〵外へ立出て見
れハ燈籠なと皆ころび居、先宿坊堂照坊へ荷物を取ニ行て
見れハ早ころびて有、其外火口ハ入九ケ所にミへて是非な
く、又本堂へ戻り来り、大木の根の所へミな〳〵打寄りし
所へ坊主来りて、是より御仏おひらき相成候間手伝ひ候へ
とて頼ミ廻り候付、みな〳〵打寄御開き相成、翌廿五日丹
波川へ来りし所、役人出て中〳〵あぶなく通らせず、是ゟ
右へ行て村有バ先〳〵其所へ行へしと指図す故ニ其所へ行
て頼ミし所、其村にて申ハ、おまへかた早く丹波川越候へ
是より又いか成事とはかられすといふ故ニ実(ママ、足カ)もとあぶなく
丹波川を走り越して一日空腹にて来りしと咄なり
栄国寺境内之建札
善光寺六万五千為回向供養三月十日ヨリ四月晦日迄於
本堂修行為結縁本尊開帳
御印頂戴 堂照坊
○府下新町之者拾三人連にて参詣之処、はけやの母壱人助か
り戻りし由
○海西郡池内村之者女房斗四人連にて参詣セし処、壱人もた
すからすミな〳〵死セし由
○善光寺近辺旅籠屋申合壱人前宿代四百五十文とにせし由、
其内鍵屋とかいへる者壱軒此申合にくわゝらず已前之通之
宿代となし由にて、此家壱軒助りし由、何とかとやら寄り
も此事をかこたひしとそ