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項目 内容
ID J1900552
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔安政地震とコレラの話〕S23・4福田紫城・別府史談会(謄写印刷)
本文
[未校訂]きようは九十六年前の安政地震とコレラ病の被害とを別府地
方の庄屋の記録などから抜いて研究しませう。
安政元年十一月五日七日の大地震は別府亀川等の家を多く潰
し慶長元年七月十三日の瓜生島陥没地震に竝て大震害といは
れました別府の被害状況を煙草屋荒金市郎兵衛は左の様に書
留ました。十一月四日より折々地震、五日大地震村中朝見浜
脇の上に免る先五日夜小家かけして大方裏住居当家中町皆々
小屋にすみそれより三軒御庄屋曾右衛様西法寺様一同住也。
府内屋米屋其隣小屋軒日野屋玄八其上にかける。本家人数百
二十六人七日にかへり昼飯などいたし候内又々大地震なり右
に付又々朝見或は浜脇さして村中大崩れ逃る。当時別府村と
いつたのは東西十町南北二十町の地域で家数二百四十軒寺三
軒庵一つ人口千六百人牛馬二百三十匹[草高|ドリダカ]九百四十五石あり
耕地反別は七十町八畝十九歩斗でした。
寺は西法寺海門寺野口の万松寺及び日暮庵で人家二百四十軒
の内幾軒潰れたのか記録してありません村中大崩れとありま
すから大部分は倒れ崩れたのでありませう。口碑伝説では府
内屋米屋など二十一軒の入湯宿屋は殆ど倒れ傾いて後の繕い
が大騒ぎであつたといいます。

亀川庄屋の高橋万之丞はこの時の被害状況を左の如く記録し
ました。十一月五日申刻大地震同日六日も少々宛度々地震七
日辰下刻大地震同日より十三日夜迄日々数度震其後も折々震
四日夜より潮干満不度(致カ)也
右五日七日両度之大地震に而当宅所々破損有之村内所々破損
半倒之家も出来当家内五日夕より前坪に幕打廻罷在七日より
屋敷裏に仮小屋相建引移亀川平田両村無残山汐津浪等相畏山
上に相移居候近村過半同然也。尤も北の方次第に軽く南の方
次第に強し別府崩家多く府内倒家甚多し乙津鶴崎大破高松お
役所玄冠(ママ)破損其外損害多し当国慶長以来未曾有也
この高橋の記録は地震学者に見せたいもので故大森地震学博
士等も「此の方次第に軽く南方次第に強し」と云う被害状況
を知らない為め地震史に豊後地方の状況を漏されました。別
府の地球物理学研究所等では是非採用すべき地震記録であり
ませう。
申の刻というのは午后四時、辰下刻というのは午前八時半頃
であります。つまり五日は午后四時、七日は午前八時半頃に
当地方は大地震でありましたのを大森地震学博士は「七日午
前十時頃伊予国大洲吉田大分小倉等地強く震い潰家多し」と
記録されました。それは「七日午前八時半頃大分地方地強く
震い潰家多し」と訂正しなければなりません。

大分地方の被害状況は豊後遺事に「十一月五日前夜より屢小
地震あり遂に強震となりまた七日に大震動す人民皆堀立柱の
茅屋を作り避難す医学堂崩る」とあるのを見たゞけで詳細な
記録を知りませんが高橋の書いた如く別府より倒れた家は甚
だ多かつたのでありませう。浜脇温泉はこの大地震後湯が涌
出なくなつたので西町山田梅太郎方に寓居中の二条義実卿に
頼み湯の出る祈願祭を行つたが昔より湯の温度が低くなつた
といい伝へます当時浜脇温泉の湯番をしていた泉孫事高橋孫
三郎家の言い伝へであります孫三郎の弟作賀は二条義実の姫
君松世姫のお守役をしており安政五年二条義実卿が長州萩城
下で毒殺された時松世姫と共に観海寺に移り湯元屋の主人に
なりました。大正十四年春私にその思い出を語りました。別
府北浜の二条温泉は安政元年の地震後浜脇温泉のぬるくなつ
た時浜脇村の村役人が別府村の村役人に頼み二条義実卿専用
のお湯場にしたので二条温泉というのだと高橋作賀は語りま
した。地震の時には別府程家は倒れなかつたが倒潰家屋は五
十軒位あり崇福寺の土塀や石垣は崩れたとも語りました。
俗に安政地震というのは元年六月十五日の伊賀伊勢大和山城
地方同十一月四日の東海道同五日の南海道西海道七日の西海
道及伊予同二年十月二日の江戸大地震等で江戸では潰家一万
四千三百四十六軒死者三千八百九十五人を出しました。私の
母方の祖母石川タケは麻布十番に住み石川三五郎という町役
人の妻でしたが家の下敷になつて腰骨を挫き明治三十八年八
月三十一日歿するまで毎歳梅雨期や冬期に腰痛に悩みました
故よく地震の怖ろしい思い出を語りました。別府地方の老人
の中にはこの江戸大震と同じ日の如く語り伝へた者もありま
すが江戸大地震は二年十月二日夜十時頃でした。別府地方の
大地震より一年後でした亀川庄屋高橋万之丞は「安政に乙卯
年正月十八日夜戌下剋地震強亥刻又震」と記録しましたが十
月二日の江戸大地震は記録してをりません当地方には震動も
感じなかつたのでありませう。
(中略)

安政二年の江戸大地震の後江戸の震災家屋復興工事が始めら
れた時江戸の大工賃銀が米四五升代に暴騰したので多くの田
舎大工が江戸へ集りました。別府地方からも別府の復興工事
が暇になつたので勘定奉行所普請方から召集されて多くの大
工が江戸へ行きました。藩領の大工も江戸屋敷復興のため召
集されて行きました、江戸の復興工事は安政四五年まで続き
ました九州各地から江戸へ物資運送の為め海路も陸路も人馬
絡駅たる有様でした。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-2
ページ 2482
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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