[未校訂]五 地震(田所眉東著貞光町誌草稿より)
安政元年(一八五四)一一月五日、大地震で町内の墓地の石
塔や庚申塔が倒れたと伝えられているので、町内の至るとこ
ろで山畑の崩壊があつたものと思われる。
古来大きな地震はたびたびあつたが、本町内には地震の跡は
残つていないが、嘉永七年(一八五四)寅の一一月四日を始
めとして、震動しだした地震は最初西から大きな地鳴がしだ
して、貞光町付近では半田、端山、太田の大山、小山を響か
し渡り、それからくる日も、くる日も絶え間なく揺れつづ
き、それぞれの部落では安全と思われる山か、竹藪に避難し
たがその詳細を述べて見ると、
太田字柴内名には今なお長さ一〇間余りの夫婦岩という大岩
石が道から少し上つたところに落ちかかつたようにまだ今に
も落ちそうになつているが、これは最初山の上にあつたもの
が、この大地震のため現在のところに転がつてきたものであ
る。
太田柴内の藤井宇三郎翁は本年八三歳の高齢であるが、大地
震の時には一二歳であつたが、嘉永七年一一月四日の朝、隣
りの大蔵、今の井上治作の家へ甘藷を洗いにいつていたが、
俄かに西南の方にあたつて「どどんどどん」と地鳴がして揺
れだした。それから大揺り小揺りが、続いて、夕七ツ時(今
の午後四時頃)には大揺りとなつた。当時同翁の宅は今の井
上治作の上で、北裏即ち乾の方に地蔵松という大きな松の古
木があつたが、西にさし出た一丈余りの立木が地を摺るやう
に見えたという。またその日小さい妹を寝さして置いて母に
つれられ山へ木を拾いにいつていたが余り揺れるので、妹を
案じて帰つて見たら、妹はふるえながら、蒲団の中へはいつ
ていた。翁も恐ろしくて堪らんのでその中にもぐりこんで一
夜を明かし、朝また山へ出かける途中、四ツ時(午前一〇時)
位に大揺りとなり山から逃げて帰つてからは益々はげしくな
つたので家の外に出た。別に家から遠く避難はしなかつたが
大揺りの時は家の外に出る、小揺りになれば家にはいる、こ
んなことが一ケ月余りつづき、小便壺から小便がまけ出たこ
とは不断のことで、夫婦岩が山上から転げ落ちたのはこの時
であつたとは、同翁から直接聞いた話である。なお翁の話に
付けて、同地で六八才の森本源蔵翁は「その地震の節には鶏
は地上で転げ、空飛ぶ鳥は地上に落ち、桃の木の穂末などは地
を摺つた」とは実父井上林八の話で聞いたところと話された。