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項目 内容
ID J1900221
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔安芸町誌 上巻〕○広島県安芸郡S48・3・30広島県安芸郡安芸町発行
本文
[未校訂]㈠地震
嘉永七年(安政元年一八五四)十一月五日、大地震は当地方の人々を震
撼させている。関係記録は次のように述べている。
村内での居宅の破損、対人事故はなかったが、間所水尾土手
がおよそ一二〇間にわたって、一尺五寸ほどずり落ちる。
「万休寺過去帳」は当時の模様を、
霜月五日ツ(午後四時ごろ)より大地震ニて、我人大さわき、家の
内に居者一人もなし、さしも大土手(万休寺)五、六尺ツゝわれさが
り、近村町内のそん(損)じあまた有之、大へんの事ゆへ、印置

「正光寺過去帖」には、
霜月四日より五日夜迄、[数合|かずあわせ]地震拾壱度ニ及、五日昼七ツ
時(午後四時ごろ)之分、殊外大造ニ御座候て、本堂も銀杏之木も
大造ニ働キ、前代未聞之地震ニ御座候
とあり、「檜脇氏遺稿」では、十一月四日大地震、同月七日
まで続き、矢野村八幡宮において祈禱があり、村々から役人
参詣すると記録されている。
「近世地方経済資料、和歌山藩社倉趣意并法則」によると和
歌山地方では二、三月ごろより時々地震があり、六月十四日
夜九ツ時(午後十二時ごろ)に大地震が起き、人々は津波を恐れて在
々に逃げ、およそ二〇日間は誰ひとりとして家に居る者もな
いほどであった。そして十一月四日朝の四ツ時(午前十時ごろ)から
五日七ツ半時(午後五時ごろ)に大地震となり二、三丈の津波におそ
われこの時の死者は一六〇余人に達する状況であったと述べ
ている(地震源地は紀州太平洋沖合か)
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-2
ページ 1729
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 広島
市区町村 安芸【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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