[未校訂]㈠地震
嘉永七年(安政元年一八五四)十一月五日、大地震は当地方の人々を震
撼させている。関係記録は次のように述べている。
村内での居宅の破損、対人事故はなかったが、間所水尾土手
がおよそ一二〇間にわたって、一尺五寸ほどずり落ちる。
「万休寺過去帳」は当時の模様を、
霜月五日ツ(午後四時ごろ)より大地震ニて、我人大さわき、家の
内に居者一人もなし、さしも大土手(万休寺)五、六尺ツゝわれさが
り、近村町内のそん(損)じあまた有之、大へんの事ゆへ、印置
事
「正光寺過去帖」には、
霜月四日より五日夜迄、[数合|かずあわせ]地震拾壱度ニ及、五日昼七ツ
時(午後四時ごろ)之分、殊外大造ニ御座候て、本堂も銀杏之木も
大造ニ働キ、前代未聞之地震ニ御座候
とあり、「檜脇氏遺稿」では、十一月四日大地震、同月七日
まで続き、矢野村八幡宮において祈禱があり、村々から役人
参詣すると記録されている。
「近世地方経済資料、和歌山藩社倉趣意并法則」によると和
歌山地方では二、三月ごろより時々地震があり、六月十四日
夜九ツ時(午後十二時ごろ)に大地震が起き、人々は津波を恐れて在
々に逃げ、およそ二〇日間は誰ひとりとして家に居る者もな
いほどであった。そして十一月四日朝の四ツ時(午前十時ごろ)から
五日七ツ半時(午後五時ごろ)に大地震となり二、三丈の津波におそ
われこの時の死者は一六〇余人に達する状況であったと述べ
ている(地震源地は紀州太平洋沖合か)