[未校訂]安政元年十一月四日
(
注、左記のもの以外はすべて「史料」第四巻にあるた
め省略
)
有田郡の状況
宝永四年の震災後百四十八年を経て安政元年十一月大地震津
波を伴いまた本郡の沿岸を襲えり。初め六月十六日激震あ
り、机上の器物転覆したる程にて人々驚き皆戸外に逃れ、恐
怖と心痛の間に一夜を屋外に明かし、人心恟々たりしが、何
事もなかりき。しかるに十一月四日地また震い、人々また屋
外に逃れ、殊に広、湯浅その他沿海地方の住民は海嘯の来ら
んことを虞れて付近の高地に避難し、一夜を部外に徹せし
が、翌五日は実に珍らしき快晴にて海上またよく凪ぎたれ
は、人々皆心を安じて家に帰れり。
然れども、午後に至りて天地なんとなく異状にして、日暗く、
風沈んで人の胸を重からしめしが、夕食前に至り、突然遠雷
の如く又大砲の響きに似たる音響然として沖の方に鳴りわた
りし瞬間、大地震は起りぬ。この時刈藻嶋の沖合に一抱えも
あるべき高さ一丈許りの火柱立てりという。間もなく墨の如
き黒波山よりも高く襲来して広の浜手、湯浅の川原、嶋の内
等皆その惨害を被る。広村の流失百戸に近く、死するもの三
十六人湯浅の川原嶋の内は人家殆んど或いは全部を失い死傷
亦少からず。有田川口は恰も密柑出荷の季節なりしが津波は
てんぱを洗つて川に突入し来り、人々辛うして赤岩の観音付
近の高地に逃げる。当時その実況を目撃せる故人の話をきけ
ば、赤岩観音の上方にある巨岩は、地震の為めにゆらゆらと
動揺し、人々安き心なく一夜をあかせり。又風呂敷づつみを
背負い子供を抱きし婦人の波に逐われて先ず包みを投じ、次
いで子供を離し、而も遂にその身も波にさらわるるを見たり
という。真に悲惨の極というべし。その他の沿岸の地は家と
して全きは少く、漁船漁具の如き皆破壊し又は流失し。
この大海嘯の後一週間は昼夜殆んど間断なく大地震動し、時
々激震を交ゆるを以つて、沿海地方は勿論、郡中到る処屋内
に住するものなく、皆林藪又は柑橘園の中に敷物を布き、炊
事の具を運び来りてここに寝食すること二週間に及び、各村
の荘屋、肝煎又は五人組頭などは始終村内を巡視して火を戒
むるなど人々は生きたる心地せざりしという。