[未校訂]安政元年十一月四日朝五時に大地震があつて人々は屋外に逃
出したが、しばらくして止んだ。五日の暮七時にまた大地震
があり本陣の馬借、役所、芝居小屋その他民家が多く倒壊し
た。余震は十日余り続いて、人は皆野外に小屋を作つてい
た。加古川と寺家町の両宿は藩から手当金を給付された。
糟谷文書に、嘉永七寅十一月四日朝五ツ時大地震皆々逃出し
ばらくに而相止申候所同五日暮七ツ頃又大地震ゆりいたし中
々はげしく馬借初芝居常小家本陣しるや三軒其外数しらず当
所は弐拾軒はかり、相つぶれ其外半つぶれ大方也其時往来留
め御代官様御道方様御奉行様御出張十六日往来明申候五日よ
り二十五日に至候得とも少々つゝ時々ゆり申候尤大阪津波死
人数知れず
一繩手小家かけに而皆出て申候或田畑には家々の小家かけい
たし罷在候難義人小家御上様より三所大小家かゝり白かひな
と遣し御救有之候同十六日夜大風諸松たをれ家々損しあり
○この度の地震で加古川駅は隣村より劇しかつたが、幸にし
て出火や死傷はなかつた。汁屋が倒れた時、塵煙が立ち昇つ
て火災が起つたと船頭村あたりでは思われたという。人々は
道路に出て摺鉢を炬燵にした。跡で痢病が流行して、藩より
救助銀弐拾貫目の支給があり、南北春日山の三所に大小屋を
立てた。